青木のまちの歴史・講師:千草浩氏
江嵜企画代表・Ken
青木地区まちづくり協議会、平成24年度定期総会が、6月17日、午前10時から福池地区福祉センターで開かれた。会合のあと千草浩氏(神戸市教育委員会、埋蔵文化財担当課長)から「青木のまちの歴史」と題して10時半から正午までの講演を堪能した。
3500万年前には六甲山もなく現在の大阪湾は湖だった。100万年前あたりから隆起が始まり、その間、噴火、地震を経て無数の断層が出来た。ほぼ1万年前に現在の姿となった。今も隆起が続いている。神戸の地層を調べると火山灰が出てくる。石器時代を経て、粘土と水と火で焼物を作る縄文時代に入る。煮ることを覚えてどんぐりをアク抜きして食べられるようになった。食材の範囲が広がり、一気に生活が安定した。ほんの2,3百年前、江戸時代の生田の森の絵が残っている。生田神社の前は海だった。六甲の山を背に砂浜がどこまでも続いていた。畑を耕し、魚をとって生活していた。
沢山の土器が出土している。時代が下ると木製の鍬、鋤、鎌が出土している。鎌も伐採用など使い道に分けて形が違う。木製農機具の材料は全て樫が使われている。力がかかる道具には粘りのある木が選ばれた。食器などの器には楠が使われた。用途に合わせた材料が選ばれた。
いまから2500年前と見られる北青木遺跡から昨年、阪神電車高架工事の際、子供を埋葬したと見られる木棺が4棺出土した。棺桶の板は、はめ込み式になっていた。棺桶の材料は、こうやまきが使われていた。当時は山麓に沢山のこうやまきが生えていた。今はない。
北青木の周辺から多数の銅鐸が出土している。海抜200メートルの山麓にある保久良神社境内から多数の銅剣が出土している。母校、本庄小学校と阪神電車線路との間、高架工事現場から昨年、銅鐸が出土した。銅鐸は祭祀用に作られ土中に埋めた。銅鐸の表面に紅柄が塗られていた。いろいろな説があるが、銅鐸を振って音を出した。時代を経て祭祀用から飾りへと変遷した。六甲山麓の御影渦森台から出土した銅鐸が、現在、国立東京博物館に展示されている。日本で見つかった銅鐸は500ばかりに過ぎない。明治時代、多くの銅鐸が海外へ流出したと見られている。
マンションの工事などがあると調査が始まる。北青木周辺6ケ所から集中的に銅鐸が出土している。なぜか解明されていない。北青木地区周辺からは、まだまだ銅鐸が出てくる可能性がある。ところが、調査が始まると、「いい顔をされたことは一度もない」、と話された千種氏のことばが印象に残った。
北青木地区は神戸市東灘区にある。東灘区の人口は18年近く前の震災時には15万に減った。現在約22万まで回復した。ただ、震災を経験した人はこの内、半分にすぎない。若い世代、特に子供が増えた。青木町づくりには子供の意見、学生の意見など入れて進めていると聞いた。2500年前から多くの人が青木地区に住んでいた。太古の時代に改めて思いをはせながら帰路についた。(了)