「人生、楽しかったかね」
ようやく涼しくなり、海に沈む夕日を眺めながら男がグラスを傾けていると、意識に直接語りかけてくるその声が聞こえた。重々しい、しかし穏やかな声だった。
「誰だ! どこにいる?」
「君には見えない。“声”が聞こえるだけだ」
「よくわからないが、確かに意思は通じるようだ。宇宙人か神様か…」
「まあその辺は、ご自由に」
水平線が遥かかなたまで見渡せる、絶壁の上の立派な屋敷。そのバルコニーで、クリーム色のガウンを着た男と見えない相手との会話は続く。
「さきほどあなた、人生は楽しかったか、とお尋ねになりましたね。私は死んでしまったのか? それとも、今ここで死につつあるのか?」
「いやいや、それは心配御無用。死ぬのはまだ先だ」
「ではなぜ、そんな質問を」
「それに答える前に、そもそもの話から始めよう」
緊張感も手伝って、男はグラスのワインをひと口飲んだ。
「もうすぐこの星の人間は滅びる。君はその、最後の一人というわけだ」
「滅びる? いったいどうして?」
「君たち人間自身のせい、というところか…」
「環境がおかしくなってしまった、というわけですか」
「そう、前々から君たちも感じていたとおり」
男はスモークチーズのひと切れを口にし、ワインクーラーからボトルを取り上げ、グラスに注いだ。そう言えば、おととい出掛けたままの執事が、連絡もなくまだ戻ってきていない。
「しかし滅びるなんて、急に言われてもピンと来ませんが」
「そうだろう。こういう話をするのは君が初めてではないのだが、彼らも同じようなことを言っていた」
「それは一体?」
「各国の首脳だ。しかし信じられないのと、何とかなるだろう、という意識があったのか、残念ながらほとんど相手にされなかったよ」
「しかしなぜ、私なんかに」
「それにも答えなくてはなるまい」
太陽は水平線の向こうに消え、きれいな夕焼けが広がっている。心なしか、水面が以前に比べてずいぶん近くなったような気がする。
「君は、世界一のお金持ちであろう」
「ええ…あなたが神様だとすれば、その前では意味のないことですが」
「まっとうな商売で得たものだ。それは知っておる」
「何ともおこがましいのですが、世のため人のため、たくさんの製品・サービスを世間に提供してきました」
「そう、それは立派なことだ。高性能な自動車や情報機器を生み出し、有用な医薬品やプラスチックを安く提供し、便利な保険を編み出した」
「ええまあ、自分で言うのも何ですが、私は世の中に多大な恩恵をもたらしたと思っています。おかげで、こうして悠々自適に老後を過ごせるのだと…」
「そうじゃろうて。そういう意味では、天に最も愛された人間だと言ってもいい」
「ええ。大変でしたが、充実していました」
「ただ、相手は人間だけ…」
「え?」
「喜んだのは、人間だけ…」
「そりゃもう、買って下さるのはお客様ですし。お客様が喜ぶこと、お客様のニーズに応えるのが、経営者としての務めでしたから」
「そうじゃな、商売人にとって、お客様は神様みたいなものだからの」
手元が少々見づらくなってきた。何だか責められているような気もして、男は席を立ち、バルコニーの照明をつけた。
「それが悪かったというわけですか」
「結果的にはそうなる」
「地球全体のことを考えていれば、ということをおっしゃりたいのだと思いますが、普通じゃ無理です」
「普通は、な。しかし君にはそれだけの才能と、財産と、余裕とはあったはずだ」
「でも私に言われても」
「世界を支配していたと言ってもいい企業が何かを始めれば、きっと他にも追随する者が現れたはず。そうすれば、未来も変わっていたであろう」
「それで私に話を」
「そういうことだ。ただ、やむを得なかった、と言えなくもない」
頭を整理したくて、男はクラッカーを口にし、ワインで流し込んだ。そうそう、この間からテレビが映らなくなってしまい、故障したんだと思っていた。
「で、これからどうなるのです?」
「君はこの星で最後の一人となる。もうどうにもならないことだし、すでに世間は静かに終わりを迎えつつあるから、誰かに相談することもできない。わしが最後の話し相手、ということだ」
「地球は?」
「人間がいなくなれば、元の穏やかな星に戻るだろう。そしていつの日か、また別の高等生物が出て来ることだろう。君たちの時間にして、何億年も先のことだが」
「私は?」
「食糧も充分あるようだし、自家発電装置も備えているから、しばらくは大丈夫だろう」
目の前のワインやチーズが、急にもったいなく思えてきた。もちろん、自分の会社の製品だ。
「…こうなることは、必然だったと?」
「必然といえば必然。しかし修正することもできたはず。そこに手を出せないのは残念なのだが」
「これからどうされるのですか」
「人間の最期、つまり君の最期を見届けたあとも、ずーっとずーっとこの星を見守るだけ…」
海はすっかり暗くなり、水平線に沿ってほのかな明かりが見えるだけとなった。ふと、最初の質問に答えていなかったことに、男は気が付いた。
「人生楽しかった、でいいのか…」
返事は、なかった。
Copyright(c) shinob_2005
ようやく涼しくなり、海に沈む夕日を眺めながら男がグラスを傾けていると、意識に直接語りかけてくるその声が聞こえた。重々しい、しかし穏やかな声だった。
「誰だ! どこにいる?」
「君には見えない。“声”が聞こえるだけだ」
「よくわからないが、確かに意思は通じるようだ。宇宙人か神様か…」
「まあその辺は、ご自由に」
水平線が遥かかなたまで見渡せる、絶壁の上の立派な屋敷。そのバルコニーで、クリーム色のガウンを着た男と見えない相手との会話は続く。
「さきほどあなた、人生は楽しかったか、とお尋ねになりましたね。私は死んでしまったのか? それとも、今ここで死につつあるのか?」
「いやいや、それは心配御無用。死ぬのはまだ先だ」
「ではなぜ、そんな質問を」
「それに答える前に、そもそもの話から始めよう」
緊張感も手伝って、男はグラスのワインをひと口飲んだ。
「もうすぐこの星の人間は滅びる。君はその、最後の一人というわけだ」
「滅びる? いったいどうして?」
「君たち人間自身のせい、というところか…」
「環境がおかしくなってしまった、というわけですか」
「そう、前々から君たちも感じていたとおり」
男はスモークチーズのひと切れを口にし、ワインクーラーからボトルを取り上げ、グラスに注いだ。そう言えば、おととい出掛けたままの執事が、連絡もなくまだ戻ってきていない。
「しかし滅びるなんて、急に言われてもピンと来ませんが」
「そうだろう。こういう話をするのは君が初めてではないのだが、彼らも同じようなことを言っていた」
「それは一体?」
「各国の首脳だ。しかし信じられないのと、何とかなるだろう、という意識があったのか、残念ながらほとんど相手にされなかったよ」
「しかしなぜ、私なんかに」
「それにも答えなくてはなるまい」
太陽は水平線の向こうに消え、きれいな夕焼けが広がっている。心なしか、水面が以前に比べてずいぶん近くなったような気がする。
「君は、世界一のお金持ちであろう」
「ええ…あなたが神様だとすれば、その前では意味のないことですが」
「まっとうな商売で得たものだ。それは知っておる」
「何ともおこがましいのですが、世のため人のため、たくさんの製品・サービスを世間に提供してきました」
「そう、それは立派なことだ。高性能な自動車や情報機器を生み出し、有用な医薬品やプラスチックを安く提供し、便利な保険を編み出した」
「ええまあ、自分で言うのも何ですが、私は世の中に多大な恩恵をもたらしたと思っています。おかげで、こうして悠々自適に老後を過ごせるのだと…」
「そうじゃろうて。そういう意味では、天に最も愛された人間だと言ってもいい」
「ええ。大変でしたが、充実していました」
「ただ、相手は人間だけ…」
「え?」
「喜んだのは、人間だけ…」
「そりゃもう、買って下さるのはお客様ですし。お客様が喜ぶこと、お客様のニーズに応えるのが、経営者としての務めでしたから」
「そうじゃな、商売人にとって、お客様は神様みたいなものだからの」
手元が少々見づらくなってきた。何だか責められているような気もして、男は席を立ち、バルコニーの照明をつけた。
「それが悪かったというわけですか」
「結果的にはそうなる」
「地球全体のことを考えていれば、ということをおっしゃりたいのだと思いますが、普通じゃ無理です」
「普通は、な。しかし君にはそれだけの才能と、財産と、余裕とはあったはずだ」
「でも私に言われても」
「世界を支配していたと言ってもいい企業が何かを始めれば、きっと他にも追随する者が現れたはず。そうすれば、未来も変わっていたであろう」
「それで私に話を」
「そういうことだ。ただ、やむを得なかった、と言えなくもない」
頭を整理したくて、男はクラッカーを口にし、ワインで流し込んだ。そうそう、この間からテレビが映らなくなってしまい、故障したんだと思っていた。
「で、これからどうなるのです?」
「君はこの星で最後の一人となる。もうどうにもならないことだし、すでに世間は静かに終わりを迎えつつあるから、誰かに相談することもできない。わしが最後の話し相手、ということだ」
「地球は?」
「人間がいなくなれば、元の穏やかな星に戻るだろう。そしていつの日か、また別の高等生物が出て来ることだろう。君たちの時間にして、何億年も先のことだが」
「私は?」
「食糧も充分あるようだし、自家発電装置も備えているから、しばらくは大丈夫だろう」
目の前のワインやチーズが、急にもったいなく思えてきた。もちろん、自分の会社の製品だ。
「…こうなることは、必然だったと?」
「必然といえば必然。しかし修正することもできたはず。そこに手を出せないのは残念なのだが」
「これからどうされるのですか」
「人間の最期、つまり君の最期を見届けたあとも、ずーっとずーっとこの星を見守るだけ…」
海はすっかり暗くなり、水平線に沿ってほのかな明かりが見えるだけとなった。ふと、最初の質問に答えていなかったことに、男は気が付いた。
「人生楽しかった、でいいのか…」
返事は、なかった。
Copyright(c) shinob_2005