eSSay

エッセイとショートショートと―あちこち話が飛びますが

「笑わない男」

2008-04-27 09:22:53 | ショートショート
 幕末や明治の時代にはそれこそたくさんいたのかもしれないが、現代には珍しいというのか、まったく笑わない男がいた。

 もうとっくに引退をしていたのだが、元々はお笑い芸人だったそうだ。時代を席捲し、彼がいなければテレビ番組が成り立たない時期もあったという。
 男女を問わず、またあらゆる年代に彼の芸は受け入れられた。それは勘、そして記憶力がバツグンに良かったせいもある。あらゆる笑いのパターンを知り尽くし、どういうタイミングでどういうギャグを入れればいいのか、あるいは何も言わない、何もしないのがいいのか、というのを完璧に身に付けていた。
 武道の達人があらゆる攻撃に対処できるように、笑いのすべてを会得していたと言ってもいい。だから彼は、もはや逆にどんな笑いのパターンにも反応できなくなってしまっていた。すべてを知り尽くした者の悲哀、である。

 そんな彼も、遂に死の床に臥すこととなった。
 昔を知る友人、そして弟子たちは、せめて死ぬ前に一度、彼に笑顔を見せてもらおうと努力した。絶頂期だった頃のビデオを見せたり、思い出話や苦労話、昔の面白かった話をしたり、と。しかしそんな努力もむなしく、一度も笑顔を見せることなく彼は息を引き取った。

 だが思わぬことに、彼の死に顔はかすかに笑っているように見えた。笑いに生き、そして笑わずに生きた自分の一生が、何とも皮肉に思えたのかもしれない。あるいは、薄れゆく朦朧とした意識の中で、まったく思いもしなかった笑いのパターンを見出したのかもしれない。ただ、その笑いの意味は本人しかわからないのであるが。
 いずれにせよ、その死に顔は、穏やかそのものだったという。

 Copyright(c) shinob_2005


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« それぞれの〈ロス:タイム:... | トップ | 福井県小浜市へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ショートショート」カテゴリの最新記事