読書は本がないとできない、映画もスクリーンがなければ見られない。スキーは板がないとできないし、サッカーもボールがなければ始まらない。
でも考えることだけは、何もなくても生きてさえいれば、つまり脳ミソさえあれば、いつだって、どこでだってできる(いやひょっとしたら、魂があれば死んでも考えることはできるのかもしれない)。そしてこれは、人間に許された「最高の贅沢」だと言える(チンパンジーやイルカも、もちろん何かしら考えているのだろうが)。
思考の流れるまま、好き勝手に考えを巡らす。これほどの楽しみを僕は知らない。他愛のないことから深刻なことまで、その内容は様々なんだけど、流れのままに任せるというのは、それはそれで気分のいいこと。
会社にいれば電話やら相談やらで、家にいればテレビやら何やらで、思考の流れが中断される。それがイヤになると、旅に出たくなる。先週も寸又峡に出掛け、丸2日間、ほとんど誰とも話すことなく過ごした。
シーズンオフのため閑散としており、100m四方(あるいはもっとか)人っ子ひとりいない山道を歩き回りながら物想いに耽るのは、とてつもなく贅沢なこと。一人なんで、誰にも気兼ねすることもないし。
考えることで何がいいかっていうと、思いもよらなかったアイデアが閃くこと。全然別の事柄がつながる一種の〈アハ体験〉でもあるのだが、ひょっとしたら誰も考えたことのないことを考え付いたかと思うだけで、楽しくなってくる。もちろん、それがすぐ何かの役に立つわけでもないけれど。
かのドストエフスキーや埴谷雄高があれだけの作品を書けたのも、長い獄中生活で、考える時間がたっぷりとれたから。できることなら僕も、深く深く、考えてみたいものだ。
で、今回考え付いたのは、「もし石油がなかったら、文明の発達もずいぶん遅れていただろう」といったこと。
〈夢の吊橋〉という所に行ったんだけど、途中の「手作りの店 さとう」というみやげ物屋で食べた〈山いも餅〉というのがなかなかウマくて。(寸又峡に行く機会あったら是非。愛想のいいおじさん・おにいさんが声掛けてくるはず)
そうそう、帰ってきた翌日8日(月)は東京出張となっていて、打って変わって人の多さに、ひっどく疲れたのでした。
ちょっと言いなりになってあげるだけで
簡単に3万くれるとか、、マ ジ キ チ w