格差社会ということで、憲法第25条第1項〈生存権〉というのが、最近よく話題になる。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」というもの。憲法記念日はとっくに過ぎてしまったが、きょうは憲法について、ちょっと書いてみたい。
その第2項には「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とある。僕は薬関係の仕事についているから、ここに書かれている国の義務(つまり管理)の下、国民の健康的な生活のために医薬品の製造販売をしている、ということになる。まあこれは、医療機関や薬局、各種福祉施設で働く人たちも同じわけだが。
この第25条の下には医療法とか薬事法とか食品衛生法とかがぶら下がっていて、その下にまた何とかいう規則など、だんだんと細かくなっていくのだが、やはり大元は憲法である。
各規則は守らなければならない、それは法律に書いてあるから。その法律は守らなければならない、それは憲法に書いてあるから。ではその憲法を守らなければならないことは、憲法第98条に「国の最高法規」と書いておくしかない。何かを規定しようとすれば、上位の法規が要る。そうすると延々と上位法規が必要になってくるわけで、キリがなくなってしまう。
これはまあ、「いくら完全な概念であっても、その概念の中だけで考える限り、完全とは言えない」というゲーデルの〈不完全性定理〉にも似た考え方になるのだが…ちょっと小難しくなってしまった。
だから、とりあえず憲法というものを一番上ということで文書上は留めておかざるを得ない。(大元、ということでまず制定した、という方が正確なのだが)
で、憲法の上を考えると、それはもう〈イメージ〉しかないだろう。この場合、公布当時の米国・GHQの「日本はこうあってほしい」という思惑であり、当時の日本政府の「日本はこうありたい」という意思であるに違いない。
だから、たとえば第9条をどう解釈するか、どうするのか、といったところで意見が分かれるのは、当たり前と言えば当たり前の話。
もっと言うと、ここにこう書いてあるから、だけではなく、前後のつながりとか全体的なニュアンスとか、そういったことも考えないと、正確なところは摑めないんじゃないかと思う。まあこれは、憲法に限らないんだけれど。
また話が逸れる。旧約聖書の冒頭に「はじめに言葉ありき」とあるけれども、その前にはやはり「言葉を発したい」とか「光があってほしい」という、想いというのか〈イメージ〉があったはず。意思のないところには言葉も発生しないはずだから。
そうそう、その昔、仕事を早く切り上げて家に帰ろう、という「GHQ(Go home quickly)運動」というのがあったそうだが、それと米国・GHQとの関係が、イマイチよくわからない。ただのモジリなのか。
さて、年収200万以下で生活せざるを得ない人たちにとって、上記条文のような権利が満たされているかどうか、というのは、切実な問題であろう。それこそ費用さえあれば、「憲法違反だ!」と裁判を起こすことになるのかもしれない。