思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「寛容の精神」のために必要なのは、「非寛容の精神」です。

2005-03-03 | 私の信条

寛容の精神とは、裸の個人同士・あなたとわたしの人間関係のためには、何より必要な態度です。

しかし間違ってはいけません。政治権力者や経済的な支配者の言動に対して寛容の精神を発揮する!としたら、ブラック・ジョークにしかなりません。

例えば、中曽根元総理は、懐古的な「元号」強制法案を作った男ですが、こういう人間が、「日本の教育改革に全力で取り組む!」ことに寛容であるとしたら、市民主権社会の発展は間違いなく阻害されます。

民主制社会の維持・発展のためには、彼のような人間の思想と行動には、明白にノーという必要があるはずです。再び国家主義の思想を喧伝する権力者に対しては、「非寛容」の精神こそが必要です。

現代の日本人の精神は、受動性の思想=思想ならざる思想に支配され、個人に対しては非寛容、権力者には従順という、 「真・善・美」に憧れる心とは程遠いものになっているのではないでしょうか。

自民党と文部官僚が長年推し進めてきた既成秩序に従順な人間づくり、体育会系の人間を優遇する教育政策は見事に?功を奏し、権力や体制を批判する者は、変な人・危険者とみなすがごとき不健全な精神が蔓延しています。日本社会の右傾化ー矜持を失ったテイタラクは眼を覆うばかりです。

実存者としての個人は、交換可能な「人」ではありません。私は、人間を受動者に陥れる歪んだ思想―既成社会の枠組みに個人を閉じ込める保守主義を、日々の具体的な行動の次元から変えていかなければいけないと考えています。

金の力で政権を維持している自民党の代議士が、「金の力で何でも出来ると思っているのはケシカラン」と言い、組織を上げて裏金作りに明け暮れている警察が、「青少年の非行を取り締まる」と言う。外部の厳しい監視の目が入らないこういう腐った団体・組織に「寛容」な精神を持つ!?保守主義の人間は、必ず、裸の個人―弱い立場の人間に対しては「非寛容」です。

哲学とは裸の個人―実存として生きる人間の側にたつものです。明治天皇へ奉げられた天皇讃歌=「君が代」を学校現場に強制することに象徴されるような国家主義のイデオロギーに対しては、断固としてノーを言う「非寛容」の精神が何よりも大切なはずです。

政府権力者が教育の場に自分たちのイデオロギーを持ち込むのが当たり前という風潮をこのまま許すなら、日本の社会は裸の個人から発するパワーを失い、必ず衰退していくでしょう。

健全な人間は、国を愛するのではなく、何よりも人間を愛するのです。権力を使って時代錯誤の「愛国心」を強要しようとするのは、裸の個人を愛することのできない歪んだ思想の持ち主にのみ可能な所業です。

限りない愛と寛容の精神が必要なのは、裸の個人―あなたとわたしに対してです。くれぐれも間違えのないようにしたいと思います。

武田康弘 2005.3.3




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