思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

嬉・ブログ内で成立!!「アイデンティティ」の踏み込んだ議論=「民知」

2005-03-24 | メール・往復書簡

「互いの誠実さへの信憑」が心のどこかで成立していると、全く趣味もタイプも違う人間同士が、ブログ上のやり取りで議論を深めることができるという貴重な経験をしました。
ブログ者は、「民芸」 クリックならぬ、「民知クリックを実践し、広げていきませんか?


現代人の重要な課題―「アイデンティティ」についてのやりとりを以下に貼り付けます。


以下は、lucienさんのブログです。

昨日続いて、宮台の言う「流動性社会」について考え続けてしまっている。
流動性社会とはアイデンティティの得にくい社会のことだ。たいていの人はただのサラリーマンであり、ただの主婦であり、ただの学生であり、ただの自営業者であり、ただのニートである。サラリーマンなどはクビになれば代わりの人間など掃いて捨てるほどいるのが現実だ。その人にしかできない仕事や行為を為せる人間はごく少数で、あなたのやっていることは別にあなたがやる必然性を持っていない。誰でもできることなのである。人間が生きていくにはアトリビューション(属性)=共同体からの承認が必要だ。しかし現在の社会に生きることは常にそれが脅かされている。
それを解消する手段として宗教があるだろう。某創価学会を思い起こしてみれば、選挙に勝利するために粉身砕骨するあの人たちの顔の輝きは何なのだろう、と、羨ましくさえ思える。
私とてかつて変な夢想に囚われたことがある。三島由紀夫を耽読していた当時、強引に「祖国防衛」という目的を作り出し、盾の会という共同体を作り出し、「文化概念としての天皇」、つまりアイデンティティの根源としての天皇を戴いて自決したあの事件について深く知るにつれ、戦前の「皇国の臣民」としてのアイデンティティとはいかなるものであったのかリアルなものとして妄想した。
三島由紀夫事件もアイデンティティの問題が根源にあるとして切り取ることができそうである。無いアイデンティティを強引に作り出す奇怪さがそこにある。豊穣な創造力+強烈なアイデンティティへの欲求が重なってあのような結果を招いたのだが、一般人には危険極まりないものだと気がついて、私はなんとかバランスを取り戻すことができた。

社会からの承認を得たいとする欲求が強すぎるとどんな奇形が発生するのか。私にはホリエモンが思い浮かんでしまう。
逆に社会からの承認を諦めてしまえばどうなるか。そういった人たちは脱社会化し、無規範的な行動に陥るか、自分でオリジナルな行動規範を作り出してしまうかだ。社会とは無関係な場所に自分勝手なバモイドオキ神を創造した酒鬼薔薇が好例だといえる。

「承認の供給不足」はそういった脱社会的人間たちを量産すると同時にホリエモンのような奇形も生み出してしまう。また、精神的な問題を抱える人たちも生み出している。
現在の成熟化社会における最大の問題はこのアイデンティティの問題なのではないか。いったいどうしたら良いというのだ。
昔のような地域共同体の復活などあり得ない。おせっかいババアにお説教ジジイと共に閉域で生活することはもうあり得ないだろうし、マスメディアやネットなどのマスコミニュケーションのもたらす存在の流動性は地球上の隅々にまであまねくスタンダートとして確立しつつある。
これからますます殺伐とした社会になることは覚悟しなければならない。そういうことを考えていると本当に絶望的な気分になる。こういう状態が長く続くと、一人のカリスマの出現によって一気に全体主義へ流れていくことも容易に想像できるからだ。



私(武田)のコメント

[タケセン] [2005/03/22 02:06] [ MyDoblog ]

同感です。
鋭い指摘だと思います。

現代社会では、「意味論」(本質学)なき「事実学」の積み上げが「知」だとされてしまうために、直観=体験能力が養われず、心身全体による会得=腑に落ちる納得が得られません。

自己のアイデンティティとは、深い納得=「意味充実」の世界がもたらす充足感によりますが、ゲームとしての「知」では、やればやるほど自己解体を加速し、ニヒリズムを招来してしまいます。

世間から隔離されて育ったお坊ちゃま(三島)も、百科事典相手に育った東大坊や(ホリエ)も、人間の最終の拠り所=「内在」として知覚が希薄なのでしょう。哀れです。


lucienさんのブログ

コメントどうもありがとうございます。
お返事が長くなりそうなので、いっそ記事にしてしまいたいと思います。

日本では一般的には意味論というのは非常に難しいことだと思います。
よく言われていることですが、キリスト教圏では論理や倫理の最終的な保証を神が受け持っているので、意味論が回転し展開することができるのですが、日本では意味論を追求していったらとたんに虚無に転落するような気がします。
共同体の知恵としての「神」という概念が、本当に私たちの社会にも必要だと感じます。もちろん宗教的な神ではなく、神と同様な機能を果たす、何がしかの共同幻想ですが。
戦前までは明治政府によって天皇が復活して地域共同体の上部にメタレベルの共同性を構築し、急激な文明的近代国家へとまとめあげることに成功したわけですが、戦後になって経済成長に目処がついた1980年代あたりから成熟社会になると、とたんに足元に虚無が広がっていることに気づかざるを得ないわけです。

何がしかのメタレベルの神的な共同幻想は自分のアイデンティティを試行錯誤の下に構築できる人たちが多数な社会なのでしたら必要のない措置だと思いますが、いかせん、私を含めて他者からの「承認」の供給を待ち続けてしまうような凡人だらけなのですから。昨今の占いブームの根源もここにあると思います。そしてますますこの傾向は加速するはずですし、非常に危険な状態にあるような気がしてなりません。
この状況につけこめばオウムの麻原みたいな詐欺師が簡単に事を成せますし、殺人にいたる敷居の低い人間たち(些細なことで殺人に至るような)が増えるはずです。

メタレベルの共同幻想を作り出す(これ自体が危険なことなのですが)のでなければ、自分で意味の試行錯誤をし、内面の強度(濃密さ)を作り出せるようなスキルを開発する必要があると思います。
しかし、私にはそのスキルをどのように開発すれば良いのか、さっぱりわからないのですが。この仕事はおそらく、広義のクリエイター、哲学者、思想家、芸術家、音楽家、教育者、小説家、政治家、科学者、などが知恵を振り絞って即急に取り組まなければならないと思います。
[ 更新日時:2005/03/22 23:50 ]


私(武田)のコメント

[タケセン] [2005/03/23 14:08] [ MyDoblog ]

lucien様。よい議論ができて感謝です。 

自己肯定ができるような「小さな物語」をつくりつつ生活すること、その積み上げ以外に、アイデンティティの確立はないと思います。

肝心なのは、「情報知」と「心身全体による会得」の違いの自覚、その図と地の関係を逆転させないこと。足は大地に根を張って、心は宇宙を駆け巡る、というわけです。

この種の問題解決には、残念ですが、「専門家」は無力です。日々の創意工夫という「足元」から以外に出発点はありません。

外にではなく、誰でも、自分の中に神ならざる「神」はいるー至高のよきものは、あなたやわたしの内部にのみ住んでいる、と考えるのが哲学の立場です。 

よろしければ、2004.11.23.と 12.16 のブログもご覧下さい。 武田康弘



lucienさんのコメント

[lucien] [2005/03/23 18:26] [ MyDoblog ]

武田さま
こちらこそコメントいただいて光栄です。

『外にではなく、誰でも、自分の中に神ならざる「神」はいるー至高のよきものは、あな
たやわたしの内部にのみ住んでいる、と考えるのが哲学の立場です。』
このような信念の元に試行錯誤ができるように、学校で教えるべきでしょうね。アイデンティティを心身全体で会得するのがまず第一なのはまったくそう思います。

現在は「情報知」が圧倒的に優位になっていますが、だんだんとそういった弊害に気がつく人が増えていると思います。子供が、他者とのコミュニケーションを取りながら遊ぶ重要性を指摘する学者も増えていますし。だいたい「音読することによってボケない」という最近の健康法の流行なんかも、情報と肉体的なパフォーマンスの融合の重要性が再発見されているように見えます。

しかし、アイデンティティの問題というのは難しいですね。はっきり言って私の手に負えません。



私(武田)のまとめです。

lucienさんは、私の手に負えないと言っていますが、ここには、答えがきちんと示されています。
後は、この原理をどのように実行していくか?だと思います。


余談になりますが、lucienさん、様々な問題を真正面から主体的に受け止めて思考されています。今の日本人には、稀有な人だと思います。これからもぜひ、楽しく気張らず、自由な文書―思考を続けて下さい。 「民知」と共にあらんことを!

2005.3.24 武田康弘



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする