思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ルサンチマンの政治家―山県有朋の呪縛力!!

2005-03-28 | 社会思想

今なお「市民精神」(クリック)の育成を阻んでいる山県有朋がつくった「国家(観)」は、どのようにして誕生したのでしょうか?私たち日本人のもつ「常識」とは、実は彼によってつくられた「虚像」でしかないことの明晰な自覚が、「人間を幸福にしないシステム」からの出口になると思います。

呪縛の源泉―山県有朋についてのレポートを私の教え子―古林到くん(高校3年生)が書きましたので、その中から、?生い立ち?行動原理?行ったことの三点をご紹介します。(内容、文章ともに到くんのオリジナルです。)


山県有朋について 古林 到


1 山県有朋の生い立ち

 まず、彼がどのような環境で育ち、どのような人間であったかを簡単に説明せねばならないだろう。そうでなければ、彼が後に行った政策・行動の理由は、恐らく理解しにくい。

 有朋は、江戸時代の後半に長州の萩で生まれた。父は藩の中間(最下層卒族)である。中間、卒族など、武士階級の説明をしておくと、まず頂点に家老、その下に「上士」として寄組、大組(これらは役職の名前)などがある。そしてその下に「下士」として、無給通、膳夫、寺社組などがある。ここまでが正式な「士族」である。その下に「準士族(士雇)」として諸細工人、船大工、梶取、茶屋組などがいる。そしてこの下にやっと足軽や厩の者、飯炊き、六尺、中間などの「卒族」がくる。この武士階級のピラミッドの中で「昇格」というものはほぼ皆無である。そして卒族の中でも「中間」は、戦時における武具や旗の持役など、人夫のようなものであったので、もっとも軽んじられる存在だった。町中で士分の者に会うと、土下座してあいさつせねばならないほどであったという。

恐らく、彼の家庭の貧しさは想像を絶するものだっただろう。そして更に、母親は有朋が五歳のときに早世してしまっている。後妻は幼い有朋をうるさがるばかりで、まるで面倒は見なかった。代わりに有朋の面倒を見たのは祖母だったが、有朋に出世の望みをかけ、人に負けるな、強くなれと口うるさく言っていた。

また、彼が幼い頃のエピソードに次のようなものがある。
彼が友達と、川に向かって誰が一番遠くまで投げられるか、石投げをして遊んでいた。その時、川に投げるフリをして、有朋より一つ上の士分の家の子が、有朋の後頭部に石を投げつけた。あまりの痛さに有朋は激怒し、謝れと叫んでしまった。その士分の子は、まさか中間の子が自分に逆らってくるとは思わなかったらしく、逆上して怒鳴り返した。それで頭に血が上った有朋は、その士分の子を川に落としてしまった。士分の子の訴えを聞いたその父親は、有朋の家に押しかけ、有朋を事件現場まで拉致し、文字通り半殺しにした後、川に投げ捨ててしまった。その後祖母に助けられた有朋は、武士になりたい、武士にさえなれば、とむせび泣いたという。

 このような悲惨な環境で育ち、蔑まれてきた生い立ちが、彼を地位と権力への欲望が人一倍強い人間に育ててしまったのだろう。本来ならば、彼の「武士になる」という夢は叶うことなく、彼の生涯もひっそりと終わるはずだったのだろうが、この後、藩内の改革として「家柄や資格を無視して、有能な人材抜擢をする」という方針が出され、彼にも出世のチャンスが訪れた。そして、幕末の動乱を通して明治となり、トントン拍子に出世していった有朋は、明治政府、特に軍部で重要な役割を果たす地位についていったのだ。


2 山県有朋の行動原理 

それでは、彼の生い立ちを踏まえた上で、今後彼がとることになる政策や行動の根幹にはどのような考え方、信念があったのかを考えていきたい。

 高杉晋作の下で奇兵隊の幹部となっていた有朋は、維新後すぐに海外視察へと赴いた。馬関戦争で欧米列強の近代軍備にコテンパンにされたことが身に沁みていたので、かれは「国家建設のためには強大な軍事力を持たねばならない」と考えていた。そのための勉強・研究として、ヨーロッパ諸国の軍備を見に行ったのだ。しかし有朋はヨーロッパで信じられないものを目にする。

 丁度この頃のフランスは、民衆の蜂起による世界初の労働者自治政府ができる直前であったし、欧州全体で社会主義が発展、人々が自由と自治を求めて騒然としていたのだ。青年期の、松下村塾の経験からガチガチの尊皇思想に凝り固まっていた有朋にとって、これらはとても理解できるような状況ではなかった。そしてそれは「天皇を頂点とする素晴らしい国家のためには、やはり町人や百姓は甘やかしてはならない、愚民どもは黙らせておかねば」という彼の考えをより強固なものにした。そして有朋は生涯、民主主義や民権思想といったものを目の敵にし、弾圧し続けることになる。天皇中心の国家が真に良い事だと彼は信じ切っていたし、何より、彼の心の奥底にある、地位と権力への欲求がそれを(意識的にしろ無意識にしろ)許さなかったのだろう。真の民主主義がなってしまえば、彼の望むような、地位もくそも無くなってしまうからだ。

 この深層心理と、尊皇思想という信念が、有朋の後年の行動の原動力になっていくことになる。(あるいは、彼の地位と権力への欲求という深層心理に、尊皇思想という信念が、彼の行動を正当化させるための「口実」を与えてしまった、という方がいいかもしれない。)


3 山県有朋の行ったこと 

では、具体的に彼がどのような行動、政策をとっていったのか見ていきたいと思う。

 海外視察から戻った有朋は、兵部省(後の陸海軍省)の高官となった。(高官とはいえ、様々な事情から実質は兵部省のトップである。)そして有朋は、まず軍事面から彼の理想像に近づけることになる。廃藩置県により、各藩の私兵となっていたものを天皇の新兵とし、更に徴兵制を導入。これにより、天皇を頂点とした中央集権国家に相応しい、統一された軍隊をつくろうとした。

そして更に、これは明治中盤の話だが、彼は陸軍の軍制をフランス式からプロシャ式に変えている。実はこれは重要な変化で、フランス式は、軍隊は政府の指揮下にある、という国民的軍隊であり、プロシャ式は政府の指揮下にあるのではなく、独自に行動できる絶対主義的なものである。(己の権力欲のため)軍隊を政府の管轄ではなく、全く独立した天皇直属のものにしたかった有朋にとって、これはとても重要なことだったのだ。(いうまでもなく、これが第二次世界大戦における日本の軍部の暴走の原因の一つとなった)

 しかし、明治六年「山城屋事件」により、有朋は一度失脚することになる。山城屋事件とは、官僚に献金する代わりに、軍需品の納入を独占していた山城屋が、有朋の了解の下に官金を借り出し、それを相場資金として投資したが、投資に失敗し、返却出来なかった、という一連の出来事が発覚した事件である。山城屋和助は長州出身で、奇兵隊時代の有朋の部下である。つまり、「同郷だから」「元部下だから」という、極めて個人的・私的な感情で癒着していたのだ。言うならば、これは近代初の(明るみに出た)汚職事件であり、これが現在も続く汚職や癒着の前例をつくってしまったと言えよう。(余談だが、この後も彼はこのようなやり方で、自分の子分の面倒はよく見、甘い汁を吸わせてやることで自派閥をひろげ、自分に反対する者を黙らせながら、日本の政・官界を掌握していった。)

 この事件によって、本来ならば山県有朋の政治生命も終わるはずだった。しかし、彼の地位と権力への異常な執着心による裏工作と、様々な事情によって彼は再び「陸軍卿」として返り咲いた。また、これも様々な事情によって、陸軍は長州閥で固められてしまい、そして陸軍をバックに有朋の内閣での発言力は更に強大なものとなった。しかも、高杉晋作や西郷隆盛、木戸孝允や大久保利通といった、軍政や政治的手腕に優れた人物達が次々と亡くなっていき、有朋の地位と権力は押し出し式に上がっていった。

そしてその後、日本にも自由民権の思想が広がり始めてきた頃、前述したように、民主主義や民権思想といったものを己の理想の敵とみなし、恐れていた有朋は、民権党の暴動を皮切りに、いよいよ民権思想の弾圧と抑止、撲滅に取りかかる。彼はまず(民権党の暴動に軍隊の一部が加担していたこともあって)軍部内の統制に取り組んだ。「軍人訓戒(後の軍人勅諭)」をつくり、忠実・勇敢・服従の軍人の精神として掲げた。上官への絶対服従(上官の命令は天皇の命令と思え!というもの)、階級の秩序を乱さぬこと、民権思想の禁止など、軍人の言論、思想の自由を徹底的に抑圧した。天皇のためだけに動く、忠実な軍隊をつくるための完全なる戦闘ロボット育成スローガンである。

また、軍隊を政府から独立したものにするために「天皇直率の参謀本部」を設置した。これには、自由民権運動の広がりに対し、その影響から軍隊を守るために、軍は政治の外に出しておかねばならない、というねらいもあったが、何より、「天皇直率」ということはたとえ内閣がなんと言おうとも天皇の許可があれば好きなだけ戦争が出来るということであり、軍部のトップともなれば、その権限は絶大なものとなる。しかも軍事力を背景に、行政への発言権も更に強大になる。これは、これから有朋が自分の理想の国をつくる為に政・官界へ乗り出すときの布石ともいえよう。そして更に、有朋は軍内に「憲兵」をつくり、軍人の倫理や規律、思想動向を見張らせた。また、軍学校の生徒にも(民権思想の影響を受けたと思われる)庶民出身の者が増えてきていたので、陸海軍刑法に「軍人の政治関与の禁止」という法を追加した。

 この後、海外視察に出た伊藤博文の参事院議長の席を預かった有朋は、政・官界でも本格的に活動することになる。有朋はまず、「集会条例」「新聞条例」「出版条例」を改正(改悪)し、集会の自由、言論の自由を拘束、各地で起こる民権運動を、警察を総動員して鎮圧、民権急進派をことごとく根絶やしにした。更に、「各府県会議員の連合集会、および往復通信を禁止」し、全国的に横のつながりのある政治結社を瓦解させた。また、板垣退助の存在で辛うじて統一されていた自由党には、三井財閥から引き出した金で(策略によって)板垣を豪遊させ、癒着を偽装して内部分裂をさせた。大隈重信の改進党に対しては、三菱財閥との献金関係を言いふらし、自由党に攻撃させた。このようにして有朋は、権力と謀略をフルに活用して、己の理想と欲望を満たしていった。

 伊藤博文が帰国し参事院議長の席を返した有朋は、今度は内務省のトップ、内務卿となった。(更に参謀本部長も兼任しているので、警察と軍両方の指揮権を握った!)そして有朋は、自由党を挑発し、自由党員や農民にわざと蜂起させ、それを徹底的に鎮圧した。

更に、相次ぐ弾圧への反感から、自由党員の多数当選が予想される衆議院とは別に、政府に都合のいいほうへ誘導するための「貴族院」という議会を設けた。貴族院の議員になる資格は「華族」であること。彼らは「皇室の守護」として様々な特権を与えられている。この「華族」というのも、有朋が貴族院をつくるために事前に設けた「華族令」によるものであり、当然、有朋自身も華族に列せられている。用意周到とは正にこのことだろう。

更に、警察制度も軍隊同様、「市民へのサービス」というフランス式から、国家の権威の執行機関であるというドイツ式に変えた。警官の地方差を払拭、統制し、本署の下に分署、分署の下に駐在所と、国民への監視網を細かく張り巡らせた。更に、「治安妨害の恐れのある人間が皇居三里以内にいた場合、それを追放できる」「一切の言論、集会を禁止する機能を内務大臣に与える」などの、無茶苦茶な法を盛り込んだ「保安条例」をつくり、その権限を存分に使った。

 この後、紆余曲折を経て内閣総理となった有朋は、悪名高き(?)「教育勅語」をつくった。「青少年が悪い風潮に染まって政治運動に走るのは、教育の主眼が知識や技術の習得に傾きすぎて徳育がおろそかになっているからだ。」という意見の下、「天皇を道徳の基礎とする国教の樹立」など、道徳教育の基本方針となる草案が文部大臣から出され、それを有朋が「日本人は皆天皇のために生き、死ぬべきだ」ということを強調してアレンジしたものだ。

いうなれば「軍人勅諭」の全国民向け版のようなものだ。具体的には、「この国は天皇を中心につくってきたものである」という、歴史上ほとんどなかった天皇統治の国体のデッチ上げを始まりとして、国民を「臣民」(天皇のために、天皇の下に生きている)とし、一旦国に一大事があればお国(=天皇)のために尽くさなければならない、などの内容を盛り込んである。また、天皇は天照大神の子孫、「現人神」だ、という明治政府のデッチ上げた国家神道を補強するものでもあり、これを国旗(日の丸)と御真影、国歌斉唱の強制と組み合わせて国民に(幼い頃から)国体思想を植え付けるための道具としたのだ(勿論、有朋自身は、この国は天皇を中心につくられた国家だと信じて疑わない。)これで、国民を民権思想から離すと同時に、天皇のための人形にしようと目論んだのだ。たとえ嘘でも、小さな頃から何百回も聞かされていれば、本当だと思い込んでしまうだろう。事実、その後のこの国の人々は有朋の目論みどおりになっていく。この「教育勅語」は間違いなく、山県有朋の最大の悪行の一つだろう。

 程なくして首相を辞任した有朋だったが、この後も議会などへの謀略を続けていく。元々彼は「議会などは、結局は天皇専制の装飾に過ぎない。議会が国体に反抗するのなら、買収も選挙干渉も、議会操縦の一手段であり、当然容認されるべき」と本気で信じていたし、今までも自分の信念を貫くためなら、買収なども平気で行っていた。日本初の政党内閣が出来たときも、軍部や司法省、内務省や貴族院など、日本の政・官界の隅々まで張り巡らせてある自派閥の網と、有朋の子分であり、彼によって送り込まれた陸相と海相達の裏工作と妨害によって分裂、あっけなく瓦解してしまった。

 そしてこの後、有朋は再び首相となり、組閣する。勿論、自派閥の人間で固めてだ。まず彼は、対ロシア戦の緊張が高まる中で軍備拡張のため、地租増徴案の議会通過に尽力した。選挙権所有者の大部分がこの法案で増税される地主だったので、まともな方法で通るわけがない。地租増徴反対同盟を警察力で弾圧しつつ、地主(ブルジョア階級)をうまいこと抱き込み地租増徴期成同盟を結成、続いて「憲政党をロシアと戦うことは日本にとって避けられぬことであり、そのためには軍備拡張が不可欠だ」として説得、それでも反対の動きはおさまらないので、彼は宮内省から莫大な金額を引き出し、それをばら撒いて議員たちを買収していった。これらの努力によって地租増徴案は見事に(?)通過した。あからさまな不正行為の数々だが、先にも触れたように有朋自身はこれらの行為は正しいと信じ切っていたし、内務省などの警察機関や、司法関係は彼の派閥で固められていたので、まかり通ってしまったのだ。

 そして、それが終わると、続いて対民権思想として政党員の行政機関(官僚組織)への進入を拒否するため、「文官任用令」を制定、天皇が任命した親任官以外は、高等文官試験を通った者しか任用できないようにした。これが、現在の日本の問題点の一つとなっている「官僚主導政治」の始まりとなる。

また、ブルジョア階級の増大により近代的労働者階級が形成され、社会主義思想と組織運動が広がり始めているのを見た有朋は、それらを民権思想と同様、己の理想の「天皇制国家」の敵と見なし、それらの弾圧と根絶に取り組む。「治安警察法(後の治安維持法)」を制定し、労働運動を若芽のうちに根こそぎ摘み取った。そして、先に書いた文官任用令をはじめとした、官僚(行政)に権力を集中させ議会(立法)を下に置くための制度づくりに尽力した。
尽力した。また、年々増していくブルジョア階級の政界進出意欲に対し「あんた方は黙って金儲けをしていればいい、後のことは一切わしらに任せてくれ」と抑え、代わりにブルジョアジーの意向をより多く議会に反映させ、政治資金の供給源の確保を図った。これが、現在にも続く政・官界と金持ち(昔で言えばブルジョア階級、現在で言えば特定の大企業など)の癒着の原形といえるだろう。 (古林 到)


「20世紀の世界に負の遺産を作り出した最大の人物」とも言われている山県有朋につい知る人はまだまだ少ないでしょう。古林到くんのレポートは、貴重なものだと
と思い、ご紹介しました。いかがですか? (武田康弘)





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