人間の「生」と「教育」を考える。(シリーズ「教育基本法」改悪との闘い?)
実存性の追求は、社会性の追求に優先するという原理
社会・公共問題に取り組むことが、実存としての己の人生の追求を上回ると、それはつまらないもの、エロースの乏しいものに陥ります。そういう人は、自分から逃げる嘘=方便として社会・公共問題を持ち出しているからです。ルサンチマンを抱えた人の問題提起は、真の問題を隠す嘘でしかないために、決して自他を幸福にしません。
自己欺瞞の人生=外見を優先させた社会性という「仮面」をつけたまま社会・公共問題に取り組めば、害あって益なしです。裸の個人としての己を後景にして社会を語れば、それはタテマエ=内容の伴わない理念主義の発言にしかなりません。空疎・形骸の言語ゲーム=ディベートや公式的発言は、興ざめ以外の何ものでもありません。
実存性の追求は、社会性の追求に優先します。本当に自分に正直に生きている人は、社会人としてのステータス獲得のために、個人としての人間のよさ=魅力を犠牲にしたりはしません。これが逆転している人は、ありのままの自分の心を偽り、何かしらのイデオロギーを先立てる逆立ちした人生を歩む人です。
実存としての自己は、社会人としての自己に先立つ、という原理をしっかりと身につけた者同士が、社会的・公共的な活動を共にすることで、その営みは始めて真に社会的有用性をもつのです。「仮面」をつけたままの偽りの人間が社会問題に取り組んでも、それは中身のない形だけを取り繕うものにしかなりません。本物の社会性・公共性を創り出すためには、実存性の追求=裸の個人のよさ・魅力の開発が必要です。私は、極めて不十分ながら、そのことをいつも心に留めて生きています。
日本人が、よき公正な社会、活力ある魅力ある社会をつくるための必須の条件は、個人としての人間のエロースを開発する努力にあるのです。右や左の理念主義、とりわけ自民党・文教族の「愛国心の育成」という理念を優先させる逆立ち=低次元の観念論の影響を元から断たなければ、よき人間性と社会・公共性を生み出す営みは、出発することすらできないのです。
己の実存のよろこびを広げ、深めることを先に・中心に・土台にしなければ、社会・公共という概念は意味をもちません。実存なき社会とは昆虫の世界にすぎないのですから。本来、人間の社会とは、裸の個人=実存のために存在するのです。個々人を生かすのが社会であり、「国家のために私を犠牲にする」などというのは、精神病者の戯言でしかありません。
2005、3、26 武田康弘