思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ありのまま、そのままを受容し、愛することーそれ以上はない。

2006-06-03 | 教育

大人の神経質な「知」によって、あれこれ決め付けず、子どものカオス(混沌)を笑いと共に受け入れ、楽しんでいると、次第に大人であるあなたが身につけている常識が狭くつまらぬものに思えてきます。もちろん、それは、何よりも子どもの可能性を広げます。情緒が安定し、健やかな無理のないその子の「よさ」が自ずと出てきます。子どもと共に大人であるあなたも、情報知に惑わされず、既成秩序から解放され、ひろく自由で愉快な人間になれます。

身の回りのことを自分でできるようにさせることと、お手伝いを習慣づける生活をさせること以外は、親が子どもをいじらないことが大切です。何もしないで見ている、ただ黙って静かに口を出さずに見守っていることが子育ての基本です。ああだ、こうだ、と言わずに、ウンそうかと肯定し、ニコニコと話を聞き、子どもと他愛もない会話を楽しむことーそれ以上の教育はありません。それが何より大きな「得」と「徳」をつくります。子どもの自我という芽を(私はこれを「自芽」と呼びます)は、弄(いじ)くれば傷つき歪んでしまいます。大人にできることは、土壌作りだけです。これは人間の生の原理なのです。

洗脳=型はめによる「いい子」を拵(こしら)えることは、人間が人間としてのエロースをひろげる可能性を狭めるだけではなく、心の底に「生への敵意」をもったおぞましい人間を生み出してしまいます。

そういえば、「愛国心」を持った「生への敵対者」を育てることが、かつてのわが国の教育でしたね。天皇陛下万歳!と死ぬ人間が最高の男とされたのでした。人間・社会は、簡単に「狂える」もののようです。特定の思想を、何食わぬ顔で「道徳」と称して子どもに押し付けることがどれほどの罪なのか?まだまだ何も分かっていない人が多いのには、ほんとうにうんざりですね。いまなお、「靖国思想」に郷愁を感じる日本人がいるのには呆れ返ってしまいます。

人間は、意味付与と価値意識なく生きることは不可能です。広義の「思想」を持たずに生きることはできないのです。思想を否定すれば、その社会の支配的な思想=想念を無批判に受け入れるだけの人生=完全に受動的な生を営むだけの存在に陥ってしまいます。そういう受動的な「もの」にされた人間は、こころの奥深い地点で「生への敵意」を持ちます。美しいもの・よきもの=エロース・悦びへの敵意が生じるのです。しっかりとした豊かな思想=考えを、日々の具体的な経験から育むことは、よく生きる上での絶対条件です。個人の自由と責任を基調とした社会では、自分の「考え」を深く大きく育てることが何よりも大切です。自分の経験を元に、自分の頭で「元から考え直してみる」作業=批判精神は、健全な人間と社会をつくる基本条件なのです。

(ひどい話ですが、中学校では、髪をとめるゴムの色まで指定です。いわく「赤のゴムなどしてきたら大変なことになるー中学校の秩序は保てない!」―エロース・よろこびは禁止です。笑止ですが、しかしこれが現実です。)

お父さん、お母さん、
現代の神経質な子育て・教育ほど愚かな所業はないのです。おおきく引いて見ること。時間をたっぷりととることが必要です。眼の前の出来事にピクピク反応する神経症は、「根源的な不幸」しかうまないことを肝に銘じないと、取り返しのつかないことになります。とにかく笑う習慣・親子でふざけ合う習慣をつけましょう!親子とも、にこやかに、ダイナミック、わが道を堂々と歩きましょう。「汝の道を歩め、そして人にはその言うにまかせよ」(ダンテ)です。
私は、現代の「リコウ」な父母たちが、イキイキとしたよき人間の生の「すべて」を終わらせてしまわないように、いつも念じています。

わが日本人よ、おおらかになろう!生きるよろこびをつくりだそう!


今日は、お昼から、白樺教育館で「民知と公共哲学との出会い」の討論会・座談会です。大阪から金泰昌(キム・テチャン)さん来訪です。また大きな飛躍がありそうです(嬉)。

武田康弘


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