思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

仲良くする?仲良くなんかできません(笑)ー「対立」していいのです。

2006-06-10 | 恋知(哲学)

対立を解消する?
一人ひとりが個性的たらざるを得ないわれわれ人間が「対立」するのは避けがたいことです。皆が仲良くなる?そんなこと、あり得るわけありませんよね。
「対立」があっても別段何も問題はないのです。ただ「対立」が他の存在を認めない=「敵対」という言動に至らないためにはどうするか?を考えればいいだけです。

例えば、私は、戦前の日本の「天皇を中心とした神の国」いう考えには、心底怒りを覚えます。したがって、そのような思想と融和することなど、決してありえないことです。ただし、いまなお、そういう想念にとりつかれている人間の存在を否定はしません。そういう人も一人の人間として等しく生きる権利があるという思想を持っているからです。

私は自分の内奥に「至高のよきもの」があると深く実感しているために、外に超越を見るようないかなる思想とも融和しません。私が愛するのは、子どもたちであり、男性原理に侵されていない女性と男性(滅多にいませんが)たちです。自然―美しい海の入り江であり、新緑の深い渓谷です。豊かで「自由な秩序」を持つ音楽であり、「パワフルな安らぎ」をもつさまざまな「もの」たちです。・・・・それらは、至高の幸せをもたらしますが、政治権力が「集団同調の圧力」を利用してつくった想念=思想(保守主義のイデオロギー)は、いやらしく、おぞましく、愚劣であり、忌避すべきものと感じ、心底ケイベツします。

私は、自分の内奥から聴こえてくる声に素直に従いつつ生きること以上に優れた人生はないと確信していますので、特定の宗教を信じる人生は私とは無縁ですし、ある家族(皇族)を尊敬するという想念とも無縁です。

「和合」・「融和」・「融合」を求めるところに敵対(暴力・戦争)も起きるのです。まったく逆で、「対立」は決してなくならないー「対立」していいのだ、という明晰な自覚こそが「敵対」(暴力・戦争)を防ぐのです。

たとえどんなに愛し合っていても「対立」はあるーその認識が「敵対」を防止するのです。
「違っている」のは当たり前ですし、「対立」していいのです。対立を認めることが何よりも大切。「みんな仲良く」という考えこそが「敵対」を招来するという逆説の真実を深く認識したいものですね。

みんな仲良く??―出来るはずのない「理想」を要請するところから悲劇は生まれるのでしょう。私は、「『理想』を語る者こそもっとも警戒しなくてはならない」という言葉を噛みしめたいと思います。

武田康弘




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