従来の日本的な「よい・美しい」は、静的(スタティク)であり、様式(パターン)が支配し、儀式的である。
例えば、日本の高級と言われる「もの」や「店」を見ると、平面的・鋭角的で、形式美が優先している。
豊かな美しさ=豊穣の美ではない。
内容が形式を打ち破り、溢れだし、あらたなカタチを自ずとつくるというダイナミズムとは無縁だ。
従来の支配的な日本文化は、広がりをもち、馥郁とエロースが立ち昇る世界とは逆で、内容が閉じた二次元的な形式の中に押し込められ、従属させられている。そこでは、人間の原初的エネルギーは、儀式を執り行う所作にまで変質させられてしまう。自由闊達で柔らかな拡がりをもつ豊かな世界は、固い形式によって消去される。画一化な管理主義、非・人間的な悦びのない灰色の世界が「正しい」とされてしまう。それが日常の所作の強要によってつくられる型の文化であり、人間性=主観性の排除を招来する深い洗脳に過ぎないことに気づいている人は少ない。
この不幸な国では、子どもたちまでも、幼い一時期をのぞいては、みな灰色である。
古い日本、儀式や形式が「神」となる非人間的な文化は、すでに完全に行き詰まっている。新たな日本は、様式的な知ではなく、深い納得の知=腑に落ちる知=「民知」の支えによってのみ可能だ。これは原理である。
2006.6.20 武田康弘