思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

主観性の消去は、型はまりの不幸人しか生まない。

2006-06-27 | 恋知(哲学)

私たち日本人が、勉強の仕方や仕事の仕方から、あそび方、ものの選び方まで、何でも「型はまり」なのはなぜでしょうか?
創意工夫がなく、自分なりのやりかたー生き方のない紋切り型の想念と行為では、生きるよろこびはやって来ないのに。

子どものころより、意味を問わない型はまりの勉強=「知」で躾けられては、私の私性は、育ちません。主観性を豊かに育てることなどまるで眼中にないのが、わが日本人の生き方のようです。
主観性の排除=消去をその本質とする明治政府作成の富国強兵政策―近代天皇制による国民教化は、今日再び息を吹き返し、ウヨク思想や保守主義が大手を振るっています。石原慎太郎のような国粋主義者がのし歩き、明治天皇賛歌の『君が代』を強要することが「正しい」教育だ!と宣言するのを見るのは、あまりに愚かしく、呆れ果てると同時に、激しい公憤に全身が震える思いです。
『プロ教師の会』なる国家主義丸出しの輩が、教育も単なる技術だ!と公言しているさまをみると、「思想の驚くべき貧困と結びついたシニカルな現実主義」と言った70年前のロシア(当時ソ連)の政治家の言葉が、今もそのまま生きているとの思いを強くします。

個人が個人性を開花させることで普遍性を獲得していくためには、広義の思想を育成する営みが不可欠ですが、その思想=主観性の深化・拡大を根こそぎ奪うような「技術主義」の想念に基づく教育がなされていては、まるで「思想を育む」ことが悪であるかのような風潮が生み出されてしまいます。上位者に従い、集団同調で生きるのが正しい!というのでは、あまりにもお粗末です。
人間がよく生きるためになくてはならない「思想」の営みを排除し、意味論抜きのただの技術だけが跋扈(ばっこ)すれば、人間は人間になれず、グルー(戦前の米・駐日大使)のいうように「昆虫」の属性を示す存在に陥るほかありません。

その結果、何でも既製品をチョイスするだけ、工夫や創意や創造とは縁のない、型はまりでよろこびの少ない「悲しき日本人」が出現してしまうのです。レジャーまでも外的価値に従い、システムが命じるままにやる!?なんとも凄い(笑)、極限です。

武田康弘


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