思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「哲学知」の獲得ではなく、「哲学する」ための原則について

2006-06-06 | 恋知(哲学)

メール・哲学教師の方たちへ。

哲学するには、その社会で多くの人が使っているふつうの言葉を使わないとダメです。
一般に知られていることばを組み合わせて考え・語るのが原則です。特別な術語を使うと、その言葉の解説になり、哲学するのではなく、知識を教える=披露することになってしまいます。大学の哲学の授業が何の役にも立たず、少しも面白くないのは、講義という名の教師の独白にすぎないからです。
とっくの昔に啓蒙主義の時代は終わっているにも関わらず、いつまでも知識の伝達に過ぎない授業ではお話になりません。
伝達する知識の出所を変えても、目先を変えるだけで何も変わりません。
自分の頭で考えるとはどういうことかを示すには、準備した言説を話すという従来のやり方を根本的に改めないといけません。
いま、リアルタイムで頭を使う=考える頭が実際に使われている現場を学生に見せることが基本条件です。どれだけ思考する頭が使われているか?を授業の現場でそのつど披露するのがほんらいの哲学です。
生徒が「教師の言説の枠組み」に従うしかない話、その枠内での質問しかでないような授業は、どんなに工夫を凝らしても所詮(しょせん)は、ただの「哲学知」の伝達に過ぎず、哲学(恋知)することには全くなりません。このような授業ならば、ない方がマシ。哲学(恋知)することのよさー面白さー有用さを伝えるためには、害あって益なしです。
そもそも、哲学とは、何も知らない=白紙の状態から考える営みなのです。知識を詰め込んだ頭では、思考は止まってしまいます。たえず、「何も知らない」(ソクラテス)という状態に戻して、そこから「考え」を立ち上げる営みを教師が実践するのです。裸になり、裸を皆の前にさらさなければ、哲学することにはなりません。
いまの大学の常識に留まる限り、どう転んでも哲学は成立しないのです。

白樺教育館の「大学クラス」では、プラトンの学園=アカデメイアの精神に基づくほんらいの哲学する営みを毎週土曜日(4時間!)に実践しています。

また、上記の考え=方法は、あらゆる学習=一般教科の勉学にとっても基本となるものです。そのように学習を遇することができれば、人間の生には深くおおきな「悦び」がやってくるでしょう。

民知と共にあらんことを。 
 
武田康弘


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