思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「技術」主義と「感情」の絶対化ー生きるに値しない生?

2006-06-24 | 恋知(哲学)

なぜ?どうして?なのため?という意味の探求をしなければ、どうなるか?

答えは簡単です。現代の日本になるのです。

小泉首相の言動に象徴されるように、?己が抱え持つ感情を絶対化する「ヒステリー」と、?意味の探求抜きの「技術」の習得、この二つで生きる薄っぺらな人間で満ちた社会ができるのです。「日本という人間を幸福にしないシステム」(ウォルフレン)の誕生です。

人間として生きるための核心=土台は、ひろい意味での思想を育むところにあります。その営みがないと、個人は精神的自立が得られず、閉じた非・人間的なシステムをつくってしまうのです。

第二次世界大戦の始まる8年前―1933年にあるロシア(当時はソビエト連邦)の政治家は次のように書きました。「日本の政治家の強みは、一般的思想の驚くべき貧困と結びついたシニカル(冷嘲的)な現実主義にある。しかし、これは同時に彼らの弱みでもある。このような知的構造を持った人々は、国を未曾有の大厄災に投げ込みかない。大規模な戦争が起きれば、日本の「天下無敵」の神話は緒戦で雲散霧消するであろう。日本の政治家や軍閥が運命に挑むようなことのないように祈る」と。

われわれは、第二次大戦前のアメリカの駐日大使、親日派で知られたグルーのいう「日本は昆虫の社会のようだ」から、今なお脱却できていないようです。個人の精神的自立をつくる条件=広義の思想のない人々がつくる社会では、人間の内的なよろこびは得られません。不幸の連鎖をとめるためには、人間味あふれる「普遍的」な思想を一人ひとりが育みつつ生きることが条件です。

思想なき人間は、昆虫や爬虫類の属性を示す存在に陥ります。われわれ日本人も人間として生きたいものですね。(つづく)


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