一人ひとりの自由と平等を基盤とする民主制という社会システムは、人類が長い間かけて獲得した普遍的な社会原理です。
したがって、民主制がどの程度浸透しているか?が、社会の良し悪しの判定基準となります。
人間の最大の営みは、人間の再生産=子どもを生み育てることですので、その場面で、どれだけ民主制が貫かれているか?が、社会の成熟度(レベル)をはかる物差しになると言えます。
わが国のように、目先のテストの点数でしか子どもの良し悪しを見ることができない近視眼の人間ばかりでは、先は開けません。学校でも家庭でも、意見を言い合うー主張を育てるという最も大事な教育がないところには、よきものは何も育ちません。
明治時代に郷愁を感じるような復古的な思想によって、いままで以上に個人を消去し、全体に合わさせようとするのは、ほとんど狂人の蛮行という他ありません。
身の回りのことを自分でさせるという基本の教育と、お手伝い=家事の一部を担わせる教育をしっかりすることが核心です。それができれば、幼児的なわがままは消えるのですが、わが国は大人にも幼児が多いようです。威張りくさっているタカ派のおじさんは、とくにそうですね(笑)。
この基本がないところが現代教育の根源問題なのに、愛国心の養成で「行き過ぎた自由」!?を押さえるとは、バカもここに極まる、としかいいようがありません。
どこに個人の自由の行き過ぎがあるのか?具体的な例をあげてもらいたいものです。意見などまるでない、否、でないように教育しておいて、学校でも会社でもスポーツ団体でも上意下達でしかない日本社会で、個人の自由の行き過ぎとは、ただ笑えるだけーまことにお粗末。
自由な意見を表明する教育がまったくないからこそ、自由に伴う責任意識が育たないのだ、という簡明な事実をみなが深く認識しなければ、何事も始まらないのです。自由と平等を基盤とする民主制を広げ、深める営みは、われわれ皆の努力にかかっています。子育てー教育の現場こそは、民主制の学校なのです。
武田康弘