思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

思想とは?―己の価値意識の明晰化が「はじめの一歩」です。

2006-08-02 | 恋知(哲学)

7月30日のブログー「思想(主観性の知)なき人間は、昆虫の属性を示す存在でしかありません」 の続きです。思想→価値意識の明晰化について書いてみました。


人は、誰でもが様々なもの・ことがら・できごと・・・・に対して、たえず意味づけしつつ、価値評価をしています。面白い・つまらない、優れている・劣っている、美しい・醜い、よい・悪い、というふうに。この己の価値意識を反省し、それがどのようなものか?を判然と自覚する営みが、思想をつくっていく基盤です。

己の価値意識のありようを知ると、なぜ、なにを目がけて生きているのか?が自分自身に告げ知らされます。無意識の内に選択していたさまざまな対象は、その人の価値意識の鏡なのです。それがどのようなものかが分かれば、そこからの跳躍もまた可能になるでしょう。価値意識の明晰化が、何を目がけてどう生きたらよいか?という思想を生み出す源泉になります。

したがって、人間が自分自身として生きるためには、価値意識のありようを自覚することで生まれる思想が必要です。上位者に従い、集団同調で流されて生きるのではなく、「私」が生きるための不可欠のアイテム、それが思想だと言えましょう。

まずは自分の価値意識がどのようなものか?を明晰に自覚すること、それが「はじめの一歩」です。この一歩がしっかりと踏み出せれば、後はその意識化の営みが習慣づき、思想を豊かに育てる作業は何よりも楽しく面白いものになっていきます。だんだんと視界がクリアーになり、世界が豊潤になっていくのは、人生のエロースそのものです。

心から囚われが減じ、自由になり、のびのびと人間性を肯定できるようになると、「私」の可能性はどんどん大きくなります。目の前の小さな事象から無限のよきものが花咲くというわけです。よき思想を育むとは、よく生きることと同義です。

この思想を育むという、主観性を深め広げる営みをきちんと追求せず、ただやりかた=技術的な知だけを求めれば、人間は内的には生きる意味がつくれず、たえず外の価値・評価・刺激によって生存する脅迫神経症者に陥るほかありません。これは根源的不幸=地獄です。この単なる技術知は、「感情」を狭小で単純なものとし、表情の乏しい紋切り型人間しか生みません。面白みのない決まりきった顔は、感情生活の貧しさの証です。

貧しい感情と技術的な知だけの世界を変えていくためには、己の思想を豊かに育むことが条件です。情緒音痴のつまらない顔(表情)から、魅力ある愉悦の顔(表情)へ、日本人をチェンジ!です。確かに「顔は顕現する」(レヴィナス)ですからね。

(写真は、サルトルとボーボワール)

武田康弘



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