思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

国・国家のため!?は、ひどいミスですー「フェティシズム」という問題

2006-08-24 | 社会思想

人々のために、ならあり得ます。自然環境をよくするために、ならあり得ます。
しかし、国とか国家のために、というのは、組織や制度(システム)のためということになり、単純な間違えでしかありません。
私は教師として、こんな言い方には×をつけます。思想の問題ではなく、単なる間違いでしかないからです。

組織ー制度(システム)のために人が生きるというのは、逆立ちした考えです。人がよく生きるために制度―システムはあるのです。手段にしかすぎないもののために人が生きるというのは、間違った思想です。

国・国家のために、はないのです。あるのは、一人ひとりの人間のためにです。
こんな簡明なことも分からない人が大勢いるのは、ほんとうに困ったことです。文部科学省の官僚たちや教師たちも分からないのでは、哀しいお笑いで、ことばもありません。彼らはいったい何を勉強してきたのでしょうか?意味論=本質論ぬきの事実学だけという日本の教育の成果!です。これを私は「東大病」と呼んでいます。

同じことですが、学校のため、会社のため、・・という言い方=考え方も間違っています。
生徒のため、社員のためとは言えますし、また、ある考えや理念を実現するためと言うのならば成立しますが、組織や制度のためという言説は、ひどいミスです。

制度や組織(法、規則、国家、会社、学校・・)それ自体を愛し求めるという倒錯を「フェティシズム」(物神崇拝)と呼びますが、原義は下着や衣服などを性的欲望の対象とする「異常性愛」の意味です。なぜこのような倒錯が引き起こされるのか?を簡明に記してみます。

自分性=主観性を否定され、絶えず客観的「正解」を強要されて育つと、人間は内的な心の真実につくことができず、外的な価値基準に合わせて生きる他ない存在に陥ります。内的欲望を否定され、無目的に、理由なく、ただ勝つことを求められる「競走馬」のような人間は、自分がほんとは何を欲しているのかが分からず、何をなすべきかも出てきません。主体的な存在にはなれず、いつも他者の視線や評価に怯えていきる受動的な存在―脅迫神経症者になります。このような人間は、「根源的な不安」と共に生きるために、動かないもの・死んだもの・権威・伝統・過去にこだわり、ロマンを育み、未来を目がける動的な、それゆえに不安定なものを忌避し、排除しようとします。それが、手段でしかない組織や制度それ自体を希求するー愛するというおぞましい倒錯を生んでしまうわけです。

われわれは、倒錯者を「エリート」と呼んでいるふしがあります。不健康―不健全の極みですね。

武田康弘



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする