思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

靖国問題の核心ーコメントへの返信

2006-08-27 | 社会思想

以下は、4月10日ミクシィブログとコメントですが、靖国問題の核心が分かると思いますので、貼り付けます。


明治政府が官軍の戦死者だけをまつるためにつくった神社が靖国神社です。敵味方を区別し、しかも戦死者を国家の神にするという「靖国思想」は、わが国の長い神社の伝統を真っ向から否定するものです。
今なお、なぜ、明治政府作成のの特異なイデオロギーの下に戦没者をまつっておくのか?全く意味不明です。
日本の伝統を重んじる右派がなぜ「靖国神社」を批判しないのか?とても不思議な話です。
民主制社会を肯定する健全なふつうの日本人は、靖国思想を否定するはずです。
中国や韓国が言うから、ではなく、私たち自身の意思として、早急に公立の慰霊施設をつくらなければいけません。これはあまりに当然の話で、議論の余地はないはずです。
靖国神社の思想=驚くべき天皇制国家主義についてはクリックで出
ます。


武田康弘

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2006年04月10日 23:02


突然の書き込み失礼します。
宗教の自由から考えると靖国思想は何も問題はないですよね。
また、神社と申されましても神社には様々あり、「神社の伝統≠敵味方を区別しない」であります故、官軍の戦没者を神とする靖国神社を否定する事は護国神社全てを否定することになり、ひいては宗教の自由を否定することと繋がります。
それに、靖国神社の思想は靖国神社で完結してあり、靖国思想を周りの神社に強要するならともかく、ただ1神社として存在する以上、その思想を否定するのは思想の自由に反してしまいます。
自由主義社会を肯定するのならば(独裁国家を否定するのならば)靖国神社の存在を良しとしなければいけません。

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2006年04月11日 09:32
タケセン(武田康弘)

確かに、靖国神社は、敗戦後、一宗教法人にすぎなくまりました。
そうであるのに、一宗教法人にすぎない神社が、兵士の全員を有無を言わせず(戦死者の宗教も、遺族の意思もなく)まつることは、明らかに論理矛盾です。

あの戦争に対して反対の考えをもつ人も含めて、時の政府が天皇の命令だ、として戦地に強制動員した戦争犠牲者たちの鎮魂施設をつくること、 その鎮魂施設では、非戦闘員を含む全犠牲者を平等にまつること、論理的にはこれ以外の選択肢はないのです。
日本政府が、彼ら死者に対して、これからは、日本人を二度と海外へ戦争に赴かせることはしない(注)、ほんとうに申し訳なかった、という深い自己反省を込めた謝罪をしなければ、洗脳教育を受け、戦争に駆り出された多くの若者の魂が真に鎮まることはないのです。幼少のころから「お上」の意思で特定思想を植えつけられ、戦争に行くのが立派なことだと信じ込まされた真に哀れな若者たちの霊に、私は言語を絶する悲哀を感じ続けてきました。激しい慟哭なくして彼らのことを想うことはできません。
全戦没者をまつる公立の鎮魂施設をつくる=あなたたちの尊い犠牲の上に、わが日本は、戦争放棄を国是とする世界に冠たる国家になりました、どうか安らかに眠って下さい、という宣言を内外に向けて誇り高く宣言する以上の鎮魂はありません。右翼も左翼もないのです。世界平和の大胆な創造ために、みなが声を一つにしなければならないのです。

(注)ここでは兵士の追悼の話でしたので、あえて「日本人を」と書きましたが、新たにつくる戦没者の追悼施設では、日本人に限定せず、すべての戦没者・戦争犠牲者を慰霊しなければなりません。なお、慰霊を超えて「鎮魂」を含ませるかどうか?は、議論の余地があるでしょう。

(※戦前は、明治政府が靖国思想=国家神道は宗教ではなく、それに従うのは日本国民の義務だと規定しました。いわゆる「天皇教」ですが、日本人である限り、クリスチャンも仏教徒も皆、靖国神道=国家神道に従わなくてはならぬとされたのです。)




コメント
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