思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

実存として生きる社会人=「響存」

2006-08-25 | メール・往復書簡

以下は、
私のブログー「全身で打ち込んで楽しむことの深さ」(白樺ML公開 )に対する『ミクシィブログ』内「コメント 」です
(写真は白樺教育館)

2006年08月24日 00:09
hiromin

本当に、子どもみたいですよねー!
これ、悪い意味じゃありません もちろん
言葉よりも実体験から、、か・・・そうか!
「愉しい哲学の会」で花嶋さんが「チャレンジだ!!」って言った時に私の中に心地よく、とことん前向き精神の気持ちがふつふつ沸いてきたのをこの日記みてあらためて思いました
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2006年08月24日 08:31
タケセン

hirominさん、
ある言葉が人を前向きにさせれば、それは生きた意味ある言葉です。閉じた死んだ言葉ではなく。「前向き精神の気持ちがふつふつ沸いてきた」(H)-とっても素敵なことですね。

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2006年08月24日 04:06


深い(ということは浅いもあり。)って、だれが決めるのでしょう。どうしてそれが「深い」になるんでしょう。「心身全体で考える」ということが成立しているかどうかはだれが決めるのでしょう。常に「まだまだ」なのではないのでしょうか。それが「持続する」、「生きる」ということではないでしょうか。「はじめに言葉ありき。」は半分正しく、半分「事実に反する」のでは?「言葉転がし」も言葉、「濃密な意味」も言葉。「心身に届く深い満足」は本人にしかわからないことではありませんか。
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2006年08月24日 08:41
タケセン

Mさん、
「本人にしか分からないことではありませんか」(M)
ーそうですね。人間は誰でも自分の頭の外には出られませんから、原理(認識論)的に言えば、「自己納得」しかありません。ただし、考え・試し・確かめることでつくられていく自己納得の世界が、他者にも「なるほど」と了解されるものに鍛えていくことはできます。そのためには、生きた言葉による率直な対話が必要不可欠です。
そういう開かれた心身が、人生に豊かなエロース、関係性の深まり・拡がりをもたらすのだと思います。
自閉ではなく、集団同調でもない、実存として生きる社会人=「響存」でありたいですね。

(※「響存」とは、鈴木亨氏の言葉です。)

武田康弘




コメント
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