From: "白樺教育館 武田康弘"
To: <shira_philosophy@freeml.com>
Sent: Tuesday, October 17, 2006 10:21 PM
Subject: [shira_philosophy:1020] Re: 立体的思考
武田です。
荒井さん、メールありがとうございます。
以下は、3年前に書いたものです。
市民精神による市民国家をつくろうという提案です。
市民=シチズンとは?
市民とは、自分が一人の個人であると同時に公民=社会人であることを自覚した人のことです。
ここで注意しなくてはいけないのは、〈公民=社会人〉と、〈国民〉とは違う概念だということです。パブリック=公(おおやけ)の、ということと、国籍や民族とは何の関係もありません。
市民=公民=社会人とは、自分は社会の中の受動的な一人の人間だ、というのではなく、自分はこの社会をつくっている一員なのだ、という自覚をもっている人のことです。繰り返します。市民とは、国民 (the- nation)ではな く公民(a-citizen)のことです。
公(おおやけ)とは、自分が生きている〈場〉の事は自分たちで考え、決定していくという自由と責任によってつくられるものです。その地域で、その国で生活している様々に異なる人々がよりよく生きていくためにはどのように考え、行為したらよいか?を問うことが公であり、パブリシティーとは、市民的な共同意識―市民的な共同体のことです。念のために付け加えれば、官・役所が公なのではありません。官とは市民生活を下支えするサービス機関です。
国民ではなく市民=シチズンという概念は、自治政治=民主制を支えるものであり、21世紀にふさわしい言葉=考え方です。(もっともわが国では、すでに500年前から惣村、自治都市、一向宗自治区など多くの地域で自治政治が行われていましたが)
市民=公民になるためには、教育が必要です。個人が個人であると同時に公的意識をもった共同体の成員となるための基本は、家族という社会の最小単位のなかで自分の役割を考え、果たすところから始まります。
21世紀における教育の柱は、国の人―国民の育成ではなく、精神的に自立した〈市民=公民=本物の社会人〉を育てることです。
もちろん、日本の教育では、「古事記」を中心とした日本の神話や様々な伝統の文化を子どもたちに学ばせることは大切なことです。しかし、それを山県有朋など明治の保守政治家が拵(こしら)えた「国家神道」(天皇を現人神(あらひとがみ)とする擬似的な一神教)の世界に呪縛されたまま教える、というのではあまりにお粗末です。
また、歴史や伝統を学ぶことは、それに縛られるためではありません。伝統から新たな世界を発見し、伝統を現代に生かすという視点がなければ学ぶ意味がなくなります。そもそも歴史というものは、私たちがどのように生きたいか?という〈夢―未来への思い〉から絶えず再解釈されていくものなのですから。
あまりに当然のことですが、ふつうの多くの人々は、日本という国家のために生きているわけではありませんし、よき日本人になることが人生の目的でもありません。一人一人が自分の中の「ほんとう」や「よい」や「美しい」を追求し、魅力ある人間になったとき、結果として日本人や日本社会を輝かせることにもなるのです。私たちの大多数は、日本語を使い、日本語で考え、日本の風土と文化の中で生きています。どう転んでも日本人である人間に、ことさら「日本」や「愛国」を強調する教育をしようとするのは、ひどく不自然で、気持ちの悪い話です。背後には、国家主義や天皇―皇室崇拝のアナクロニズムのイデオロギーがあるのでしょう。イマジネーションに乏しい心の貧しい人、一人の人間としての精神的自立に失敗した人は、必ず外部に超越的な価値をつくるものです。
明治政府の作った天皇制国家主義を容認するような思想は、日本人の個人としての力を弱めることで、日本社会の活力を奪ってしまうのです。ほんとうの愛国者とは、自国の問題点をよく知り、それを解決・克服していく人のことです。単純な日本万歳!の思想では、国が滅んでしまいます。国家主義者や保守主義者は、成熟した市民社会(そこでは国籍や民族ではなく、一人ひとりの人間性―個人の能力・魅力が問われるのです)を築き上げていくための最大の障害です。
ちゃんと考えることで、まともな思想を育てましょう。馬鹿げた日本主義では、日本人が世界の人々に敬愛される日は永遠にやってきません。自分たちだけにしか通用しない変な「常識」ではなく、なるほど、と納得できる普遍性のある常識=良識を育てることがこれからの課題です。
必要なのは、よき日本人を育てる〈国民教育〉ではなく、よき市民=公民を育てる〈市民教育〉です。それが最良の意味での「国益」となるのです。自国の近代史も批判的に見ることのできる余裕のある人間=市民を育てることは、世界からの深い信頼を得ることで、日本社会の発展を約束します。市民=シチズンとしての私たち日本人がつくるのは、従来の「国民国家」の枠組みを超えた「市民国家」なのです。21世紀の世界に必要な品位の高い理念=『市民精神』を育成する相互教育の努力を皆で始めようではありませんか。
「市民が主役」とは、そういう意味です。
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From: 荒井達夫
To: "白樺メール" <shira_philosophy@freeml.com>
Sent: Wednesday, October 18, 2006 9:00 PM
Subject: [shira_philosophy:1021] タケセン「公共哲学の原理」
武田さま。
荒井です。
まさに「公共哲学の原理」。
「活私開公」も「グローカル」も入っている。いや「グローナカル」まで入っちゃっているかも。
これ、HPにありますね。
実は、2年前に読んだとき、「一見やさしいような、でも何か難しいような。どれ程の意味があるのかな。考えたこともないな・・・・・?。」という感じでした。
また当時は、ひたすら立法技術屋の平面的思考でしたから、「国民と市民、こういうふうな意味で使うの、変じゃない?」なんて、全然方向違いのことも考えました。(スゴイ専門知の使い方! 困ったもんだ。)
でも良いこと言っているな、と特に印象に残った部分がありました。それが、これ。↓
「一人一人が自分の中の「ほんとう」や「よい」や「美しい」を追求し、魅力ある人間になったとき、結果として日本人や日本社会を輝かせることにもなるのです。」
これって、ブログにある
「生身の一人の人間=裸の個人の次元にまで自己存在を還元・反省することで得られる場所に立って、そこから人生と社会について主体的に考える生、それを実存として生きると呼びます。」
と言わんとするところは同じですよね。
だから、このあたりをふくらませて書いたら、さらにすばらしい「公共哲学の原理」の解説になるのではないか、と思っております。
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From: 杉山
To: 民知の会
Sent: Saturday, October 21, 2006 2:07 PM
Subject: [shira_philosophy:1023]
杉山です。
この間、皆さんのやり取りを聞き、タケセンの文をあらためて拝見し、
しっかりと響いてきました。3年前に書いたものが、すでに今を見据えていたわけで
すごい!
私は哲学の系譜も、そのイデオロギーもよくわかりませんが、タケセンの言葉は
ほんとに平易で、自分の今の生活や仕事に直接響いてきます。
あえていうなら、この間の「公共」論議を聞いていて、今ひとつピンとこなかった
のが、以下の文ですっきり!そんな感じです。
これが哲学か、なんて今更ながらに思います。(遅れています)
原理とは、誰にでもわかり、誰にでも実践できる(だれの生活場面でも生きる言葉)
ものですね。
皆さんには、当たり前の事が、いかに世の中的には「非当たり前」なのか!
公務員として、ずっとモヤモヤしながら仕事をしてきましたが、ようやく光明が
見えてきたような気分です。(今更遅いような気もしますが)
直で、子どもたちや親と接する仕事をしていて、その中で何を伝えて行っていいのか
どんなスタンスで仕事をしていけばいいのか、それなりに確信は持っていたけど、
今ひとつすっきりしなかったものが、こうして言葉に表していただくと、もう一度
(否、何度でも)確かめられます。
こういうのが、まさに公共哲学(の原理)ですね。
それにしても、学者の皆さんの公共哲学っていったいなんなんだ?と、対比的に思ってしまいます。
この短い言葉の中に凝縮されたものさえ、理解できず、いったい何をしようとしているんでしょう?学問の最高学府にいる研究者(?)の情けない面がますます露呈しているかのようです。
国家や行政という、権力機構の末端で仕事をするものにとっては、まさにタケセンの文は、
バイブルみたいなものです。これを日々出発点にしていきたいと思います。