思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

欲望存在の自覚と肯定―「公共哲学」の原理

2006-11-21 | 恋知(哲学)

人間は「欲望存在」です。
欲望の出し方を示し、その質を高めていくのを教えるのがほんらいの人間教育です。既存の考えやシステムへ馴致させるために、子どもの欲望を否定するのは、イジメ・陰湿な意地悪でしかありません。自他が「欲望存在」であることを否定し、欲望とはマイナス価値であるかのように言う人間は、そうとは意識せずに、自己の疎外感・不全感を弱い立場のものに移譲しているのです。移譲された弱者もまた、優位に立てる別の視点を探し、その点から他者いじめをします。人間が欲望存在であるという原理を否定すれば、閉じた不幸の連鎖=円環としての社会しか生みません。

互いの「欲望」を認め合うという基本がないと、すべては砂上の楼閣で、よい人間関係をつくり・広げ・深めていくことができないのです。人々が、公共性や社会性をもち発展させていくための出発点は、互いが「欲望存在」であることを肯定し、認め合うところにあります。理念や要請を先立てると、あるがままの人間の現実を否定してしまい、建前・偽善の社会を生み、公共性を育てません。「実存が先立つ」、とはそういう意味です。この順序を間違えると、何をしても、どう頑張ってもすべて失敗です。大きなストレスを抱え、永遠の不幸の中に沈む他ありません。

ほんとうの社会性・公共性を生むためには、心の本音につくことが条件です。理屈をつけて「欲望」を否定し合い、本心を背後に隠すしかない生は、人間精神の深部を腐らせてしまいます。悦びは、自己存在を肯定する世界からしか得られないのですから、これが否定されれば、人生は生きるに値しないものとなり、公共性は人の心の内側には成立しません。外的価値のみを追う現代の愚劣な教育・思想は、人間性の大元を破壊してしまうために、社会性・公共性を生みません。

人間教育、公共性を身につける社会教育は、ともに実存から始めるしかないのです。予めの理念・あるべき姿・道徳を押し付けることは、ウソと建前だけの人間と社会しかつくりません。よき理念も有用な道徳も生むことがないのです。人間の生の現実をみつめ、これを肯定し、認め合うこと、これは原理です。理念を先立てれば、理念は死ぬのです。「欲望存在」であるという原事実から出発し、それを肯定し、その出し方を学び、その質を高めること、これが教育と人生の原理です。現代社会の公共性は、この原理からしかつくれません。


最後に、
自他が「欲望存在」であることの肯定と相互承認にもとづいて「公共性」を実現するために最も必要とされる能力は、「妥当を生む対話の技術」を身につけることがですが、妥当を導く話し合いを可能にするには、ものごとを、自身の具体的経験を踏まえ、心身全体で知る力が求められます。単なる書物の知や情報知ではダメで、生きられた主観性の知を基盤としなければ、話し合いは空中戦となり、無意味な言葉のボクシングに終わります。エリートの知がパッチワークと辻褄あわせで、現実的なパワーをもたないのは、その知が客観学に呪縛され、生きられた主観性のレベル(民知)にまで高まっていないからです。底の浅い客観学・知(エリート知)をもとにしていたのでは、妥当を導く話し合い・討論は成立しません。狭いエリート知ではなく、「民知」という優れた主観性の知によらなければ、公共性を開くことはできないのです。これは市民社会における公共性実現のための原理です。

武田康弘


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