思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「エリート」知 と 民知

2006-11-19 | 恋知(哲学)

わが国におけるエリートとは、
ニッポン受験システムによって意味づけ、価値づけられた「優秀な」部分品にすぎません。人間存在のおおきさ、深さ、全体性とは無縁の「システム内・部分存在」でしかないのです。部分存在になるための努力、それが「エリート」にとっての人生です。ザ・システムから離れれば、価値のない部分品にしかならないわけですが、このシステム内エリートとは、既存の型・価値意識を仕込む「躾と受験知」というパターン教育によってつくられるものです。

予め「正解」の決まっている受験知の体系を順序良く身につけていくこと、主観性を深め豊かにすることとは無縁の客観学の目的化が、生身の人間を見事にパターン化していきます。このシステムは、システム内上位者が命じる紋切り型の想念・価値観を自己の判断だと思い込む「エリート」という名の部分品をつくり、その部分品の集合が社会の頂点に立ち、非・エリートを従える。非・エリートの方もまた、この序列主義に呪縛されているために、自身を劣等存在だと思い込んでしまう。どちらも部分品としての存在で、その優劣だけを競う悲しい人間にしかなれない。

見かけ倒し、うわべだけがきれいな「人間を幸福にしない」このような日本社会は、その構造自体が「いじめ」そのものです。エロース・悦びの生を消去する「部分品」としてのパターン人間製造工場は、自動的にいじめを生みます。
(愚かの極み、何ひとつ分かっていないニッポンエリートがつくったのが、新・教育基本法です。本質を抉る思考力のない上っ面の知識が生んだ理念です)

部分品しか生まない劣った知の体系が、正しい型・客観としての正解があるという想念=客観神話から生まれた受験知ですが、その知は、勝者も敗者も共に不幸にします。心が豊かであることの嬉しさ・意味充実の頭が生む悦びを持ちません。
この劣った知の体系とは全く異なる生きた知のありようが「民知」という知です。そこでは、全体として考え、全体意味を問うことが可能です。そういう頭の使い方を鍛えるのが民知の実践です。これはとても面白く、頭を使うことが悦びとなる主観性の知ですが、『白樺教育館』では、この知の革命を30年前から続けてきました。有用な知、人間の生を輝かし豊かにする新たな知、この優れた知によって、部分品としての不幸な生しか生まない「エリート」の知を変えていく壮大な実験には、計り知れない価値があると思います。

「思索の日記」の読者のみなさんも、ぜひ、民知という優れた全体知を生きる実験にご参加ください。共に!

武田康弘




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