子どもたちを教える教師は、自分自身の政治的な考えや信条をきちんと述べる必要があります。
この社会をどう見るか?どうしたらよいか?
さまざまな考えがあり、いろいろな違った見方があることを知り・学ぶのは、ほんらい民主制社会における教育の基盤です。
先生によって見方が違うことを経験すると、子どもは自分の頭で考えることを始めます。違い・ズレがなければ、頭は使われません。社会問題・政治問題を自分の問題として考えるには、刺激が必要です。大人が本気でなにがよいか?どうすればよいか?を考え、批判的な意見を述べることがなければ、子どもの頭は動きません。
ところが多くの人は、教師は政治的意見を言ってはならない、と思っているようです。いつの間にかそう思い込まされているのです。現実の政治・社会問題に対して論理的な批判をするのは民主制の生命ですから、その能力を育むための教育がなされないのは大変困った事態です。
生徒の意見を鍛えるためには、まず、感じ・思うことをそのまま表明できる環境をつくることが絶対条件です。残念ながら、それが出来ている教育現場は、今の日本にはほとんどありません。その後で、自由対話によって「自分の意見」にまで鍛えていく作業が必要ですが、そのためには、子どもと関わる大人が本気で自説を述べる必要があります。子どもが自分なりの見解を持つには、見本が必要だからです。
政治に対する見方を複眼的にするための教育は、絶対者がいない民主制の社会を健全に維持し発展させるには、必要不可欠なもので、政治教育がないところに未来はありません。
教師がきちんと自分の考えを生徒の前で表明するのは、教育者としての責任を果たすことです。考えの違う複数の教師が、異なる意見を言い合う現場を見せることは、子どもの思考力と人間力の育成にとって何よりも大きな助けになるのですから。もし、話者として教師が一人しかいない時には、自分とは異なる考えを、書物などを使い紹介することが必要です。
武田康弘