さりげなく何気ない心遣いを「配慮」というわけですが、もし、「配慮すべきだ」という要請の下に配慮すると、あからさまな配慮―いかにもという配慮になってしまいます。いわば配慮の押し売りで、これはありがたくもうれしくもありません。これでは「配慮」ではなくなります。
かっこいい、すてき、・・・というのもそれを意識的に演出すると、つまらないものーかっこ悪いもの、キザなものにしかなりません。田舎くさかったり、これみよがしの成金趣味にしかなりません。しかし、今はテレビ局が、このような下劣な趣味ーお金がすべてという思想を振りまく番組を日常的に流していますので、人間の感性が猥雑なものに成り下がってしまい、その「異常さ」「愚劣さ」が分からなくなっているようです。
知にしても然りです。多くの知識をひけらかすのは、知者とはほど遠い人ですし、理念や固い論理を振り回す人は、思考力のない人です。求められるのは、実情に即して静かに深く考えることによって「常識」の底を破る思索力でしょう。また、そうすることで生み出される思想は、人間を勇気づけ、生によろこびをもたらさなければ存在理由がありません。
かつて社会主義のソビエトの工場で、「結核は生産を阻害する」という標語が掲げられていたという話がありますが、これでは生産の増大のために健康が大事という逆転した話になってしまいます。よく生きるために何を、どう考え、どうしたらよいか?を追求することができなくなり、思考が逆立ちしてしまうのは、知的と思われている仕事・身分が保証されている仕事についている人に顕著に見られることです。
逆転・逆立ち、結果と過程を取り違えるマヌケな思考--
あらゆる人間文化の基盤であるイマジネーション(想像力)のありようも同じ愚に染まっているようです。いかにも・・・という想像力を強調したものは、【空想】でしかありません。人間の生を広げ、深め、豊かにする有用な想像力を鍛え伸ばすことが肝要なのであり、中空に漂うような物思いを発達させる!?ことではありません。飛翔する想像力も、生に奉仕する質をもたなければ、何の価値もないはずです。現実を動かし、現実に新たな視点をもたらし、非現実への飛翔が現実に豊かなエロースを生み出す、そういう自由と強靭と豊穣を兼ね備えた想像力が求められます。
人間のあらゆる営みは、【裸の個人としての人間の生のよろこび】に結びつくことで、はじめて意味と価値が生じるのです。これは原理です。既存の序列意識を満足させるような、あるいは特権的生を享受しようとする欲望は、根源悪でしかありません。
武田康弘