「相手の心のよろこび」をイメージする「私のこころ」
ーーーー(実存論から見た他者の尊重)ーーーーー
今の「私」のありようは、「気分」が示しています。ハイデガーの言うとおり、「気分」が存在を開示するわけです。
けれども、もし、気分によって開示される存在のままにわたしが行為したとすれば、よい人間関係を維持することも発展させることも不可能です。
「気分」によって告げ知らされる「私」の存在のありようをしっかり見る・知った上で、どのように考え、行為したらよいのか?を吟味することが不可欠なのは当然ですが、実際にはなかなか難しいです。
相手の気持ちを考えず、気分のままの言動で人間関係をダメにする場合がしばしばあります。よい関係を築くための努力・創意工夫がなく、その時々の自分の都合を優先させれば、関係を継続・発展させることは不可能で、そうなれば、何より大切な「関係性のよろこび」はつくれません。
よろこびを広げるには、自分を引っ込めること・我慢が大事ですが、そうすることに意味があると思える条件は、「未来」にエロースが見えるか否かです。人は意味のない我慢は続けられませんし、もしそれを続ければ心身共に「病気」になる他ありません。悦び・嬉しさ・楽しみ・・・が得られると思えば、我慢することが価値となるわけです。
未来を開くには、相手の心に、関係性のよろこびが広がる可能性があることを示しつつ、自分の心に、関係性のよろこびが広がるイメージを喚起することが必要です。「自我の満足」を優先させようとすると、エロースは広がらず、袋小路に入ってしまいます。「関係性のよろこび」を生み出そうとする努力のみが自分をも救います。自他共に、相互に、プラスのイメージをつくりだす主体的な努力、それが関係性を維持し発展させるための条件です。個人間でも国家間でも。
【相手の心のよろこび】をイメージする【私のこころ】が、自他を共に助け、幸福を生むのでしょう。自分の自由を、「気分」に従う自由ではなく、他者に、照り返されて私に、「よろこび」を広げるために使いたい、そうわたしは思います。
武田康弘
☆コメント欄の古林さんの提案を受けて、副題ー「実存論から見た他者の尊重」ーをつけました。