思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「民主主義の国家」と「国家主義の国家」の違い

2007-11-15 | 社会思想

当たり前でしかないと思われるでしょうが、
民主主義の国家(戦後の主権在民の日本)と国体思想の国家(明治憲法下の天皇主権の日本)との違いは何か?を明確にしておくことは、極めて重要です。

ひとりひとりの自由で対等な人間が集まって、その権利と安全を担保するために国家という制度をつくる、と考える民主主義の国家観に対して、
国体思想による国家観は、予め日本はどういう国であるかを規定し、その観念的な国家像に合うようにひとりひとりは生きるべきだ、と考えるわけです。

個人の実存を基底に据え、国家とはその社会に住む人々の人権を守るために必要な制度だとする民主制の国家思想と、国体思想=国家主義とは原理がまったく異なります。前者は、理念としての人権思想―自由の相互承認を基盤として、ルール的人権の思想により営まれる市民自治国家であり、後者は、上からの「公」の思想によるエリート支配の国家です。

日本語を使い、日本の気候風土の中で生活するする私たちは、自ずと「日本的」な感性と思考(私は「水の国ー日本」と考えます)を持ちます。日本で生きる人々の実存は、アメリカや中国で生きる人々の実存とは「異」なる部分がありますが、それは予め日本主義の思想を政府・教育機関が教えるのとは違います。気候風土に合致した自然性・合理性が生む個性(日本性)はよいものですが、国家主義による誘導を行えば、人々の想念は固定化・保守化してナショナリズム(国家主義)に傾斜し、頑なになってしまいます。柔軟で自由な発想・思想が失われると、個人も国家も弱体化します。他在を受け入れる柔らかさ・しなやかさがなくなるのは「死」に近づくことだからです。

国家という制度の価値は、人々のよき生のための条件整備にどれだけ貢献しているか、その程度にあると言えます。同じことを逆から言えば、人々が自分たちのよき生(互いの人権の確保)のために、国家制度を有用なものとしてつくり運用しているかどうか、ということです。現代における国家とは、【人権と民主主義を守るための制度】と考える以外にはありません。「市民国家」以外の国家、たとえば「天皇元首の国体国家」を目がけることはできません。自由の相互承認に基づく民主主義と異なる政治体制を選択することはできない、というのが市民社会の哲学=根源ルールだからです。

武田康弘





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする