思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

事実学は事実人しかつくらないー意味論は人間と民主主義を生む

2007-11-23 | 恋知(哲学)

3回に分けて書いたものをひとつにまとめて以下に再録します。


事実学は事実人しかつくらないー意味論は人間と民主主義を生む


 【好きなこと】のない人は、悲しく不幸です。
よろこびを持たずに生きるしかないからですが、自分からはじまる面白いこと・楽しいことがなければ、生に意味を感じることができません。フッサールの言葉を借りれば、ただの【事実人】(犬でも猿でもないという意味で人間であるだけ)でしかないということです。

 外なる価値=履歴や財産や・・・がなければ自立できない人。
知識や技術を集積するだけで、心の内側に生きる意味を見出せない人。
他者=親・教師・上司・・・からの指令や要請によって生きる人。
社会人という仮面をつけ、実存としての生を歩めない人。
そういう人として生きるのは、誰にとっても悦びのない人生です。

 生きる意味と価値を自ら生み出すことができないと、いつも上から(上位者)の・外から(世間)の価値に従うほかないわけですが、それでは【根源的不幸の生】を生きるしかありません。その人がその人としての意味と価値を持った生を歩めず、「事実としての人」以上にはなれないからです。外的には申し分のない地位や財産や履歴を所有していても、それらは何の助けにもなりません。内的な意味の欠乏を外的な価値で埋めることはできないからです。心・内的世界の開発を人生の中心に置かないと、何もかもが【空しさ】に支配されてしまいます。その空しさを紛らわせるために、他者からエロースを奪うしかない人生を歩むのでは、存在そのものが腐ってしまいます。他者を表向き尊重する態度を取りながら、実のところ他者を自己実現の手段として利用する人生には救いがありません。

 これは恐ろしい話ですが、なぜそのような事態が招来してしまうのか?以下にそれを考えたいと思います。「事実学は事実人しかつくらない」(フッサール)がキーワードです。

興味・関心から切り離された点数のための勉強を毎日こなす人生を歩まされる子供、幼い頃から面白みのない紋切り型の勉強をするように躾けられる子供、それでは、人間は人間にはなれません。意味と価値のない世界を生きるのは、人間としては生きないことだからです。自分からはじまる「好き」の世界が中心・土台になければ、人間は人間にはなれず、自動人形に陥ってしまいます。

 人間の知性―「知る」とは、心身全体による会得のことであり、感情世界にまで届く悦びや面白みのことです。丸暗記や冷たい理性ではないのです。知ることが生の充実に結びつかないならば、その知は、「悪しき知」でしかありません。人間のよい=よいのイデア{生き生きとしていること、輝いていること、しなやかなこと、溌剌(はつらつ)としていること、瑞々(みずみず)しいこと、高揚感のあること、愉快なこと=自由と愉悦の心}を広げ深めることに寄与しない「知」には存在理由がないのです。ただ他者に優越するための知であれば、それは自我主義をしか招来せず、自他の幸福を元から奪う「悪しき知」としか言えないからです。

 【意味論としての知】ではなく、【事実学としての知】を累積することを続ければ、内側から湧き上がる世界のない人間=自動人形に陥るしかありません。内面世界の豊饒化とは無縁の技術主義に落ちていくわけです。スタティクな形式主義、四角四面の灰色空間、悦びを消去する厳禁の精神、外的価値しか分からない不毛な生、に沈んでしまいます。

内的世界の形成のための基本の条件は、【自分が引き付けられることに集中する時間をもつこと】です。既存の路線に沿って「こなす」ことをしていてもダメです。自分の創意工夫と試行錯誤でつくる世界を持たないと、内面世界はつくれません。
 自分からする創意工夫と試行錯誤の営み抜きには、けっして人が独自世界をひらくことはないのです。「型にはまった個性!?」の演出は空しいだけです。【好きなことを自分のやりかたで追求する】、その営みを続けることで、少しずつその人の独自の内面世界は形成されていきます。

 したがって、余裕のないスケジュールに縛られた生活を送れば、心のエロースは開発されず、精神世界=内面世界が形成されることはありません。
 現代の優秀と言われる子どもたちの生活をみると、細かく管理され、時間を縛られていて、自由がありません。優秀と言われる子ほど心の世界が単調で機械的です。【固く決まりきった理屈】と【紋切り型の感情】に支配されていては、生の意味・価値は減じてしまいます。内側からはエロースがやってきません。

 「事実学」を累積した人間を優秀だと考えるような社会では、「事実人」でしかない人間が増え、新たな事態に対応することのできない紋切り型の「優秀人」(という名の愚か者)が評価されます。自分から始まる世界をもち、「意味論」としての知を生きる人間はあまり評価されないことになりますが、それでは【根源的不幸の社会】を生んでしまいます。
 幸福とは、内から湧き上がる力=情熱がなければ得られません。魅力ある人間、悦びの人生をつくるのは、【意味の濃さ】です。事実学は事実人しかつくりません。

 その内面世界を鍛え、豊かにする必須の手段が対話・討論です。内面世界を「自分教」に陥らずに深め広げるには、日常的な「自由対話」の実践が求められます。閉じれば腐るのです。民主主義とは政治の体制ではなく、人間の生き方のことだと思います。事実学の累積は「エリート主義」しか生まず、意味論の探求は豊かな人間性を育むことで「民主主義」を生むのです。

武田康弘




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