【好きなこと】のない人は、悲しく不幸です。
よろこびを持たずに生きるしかないからですが、自分からはじまる面白いこと・楽しいことがなければ、生に意味を感じることができません。フッサールの言葉を借りれば、ただの【事実人】〈犬でも猿でもないという意味で人間であるだけ)でしかないということです。
外なる価値=履歴や財産や・・・がなければ自立できない人。
知識や技術を集積するだけで、心の内側に生きる意味を見出せない人。
他者=親・教師・上司・・・からの指令や要請によって生きる人。
社会人という仮面をつけ、実存としての生を歩めない人。
そういう人として生きるのは、誰にとっても悦びのない人生です。
生きる意味と価値を自ら生み出すことができないと、いつも上から(上位者)の・外から(世間)の価値に従うほかないわけですが、それでは【根源的不幸の生】を生きるしかありません。その人がその人としての意味と価値を持った生を歩めず、「事実としての人」以上にはなれないからです。外的には申し分のない地位や財産や履歴を所有していても、それらは何の助けにもなりません。内的な意味の欠乏を外的な価値で埋めることはできないからです。心・内的世界の開発を人生の中心に置かないと、何もかもが【空しさ】に支配されてしまいます。その空しさを紛らわせるために、他者からエロースを奪うしかない人生を歩むのでは、存在そのものが腐ってしまいます。他者を表向き尊重する態度を取りながら、実のところ他者を自己実現の手段として利用する人生には救いがありません。
これは恐ろしい話ですが、なぜそのような事態が招来してしまうのか?以下にそれを考えたいと思います。「事実学は事実人しかつくらない」(フッサール)がキーワードです。
(つづく)
武田康弘