思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

もう一度確認です、公共について。金泰昌氏との論争

2008-02-19 | 社会思想
「公共的良識人」紙の2007年12月号、及び、2008年1月22日の参議院でのパネルディスカッション「公共哲学と公務員倫理」http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori87.htmにおける私(武田康弘)と金泰昌氏との論争の核心点である【公と公共の区分け】の問題について、再度簡明に記します。



官庁が、民間の組織とは異なるものであることは当然です。
①官庁の組織があり、②民間会社があり、③NPOなどの市民団体があり、④趣味の集まりがある。それぞれは大きく異なっています。

では、官庁は、みなに共通する利益(市民的な公共性)とは異なる独自の「公」(おおやけ)という世界をつくっていいのか?となれば、当然、市民主権の民主主義社会では許されないことです。近代市民社会では、官とは、主権者の共通の利益を実現するものとして主権者のお金=税金でつくられたのであり、主権者の利益とは異なる独自の世界(官が考える国家!?)を持つことはできないからです。
これは、原理・原則に属する話であり、ほんらい意見の違いが出るような場面ではないはずです。公私二元論だの、三元論だのというようなことではなく、基本的な近代社会の常識に属する話でしょう。

④の「私の趣味の集まり」が、社会人みなの共通利益とは無関係に独自の世界を持つことには何の問題もありませんが、官庁が「市民的公共」とは異なる独自の「国家のため」という世界をもつことは許されないはずです。【「公共」(市民)と「公」(官)を自立・分立させることが必要だ】という金泰昌氏(「公共哲学」運動推進の第一人者)の主張を受け入れることは、近代市民社会の原理からの逸脱であり、到底できません。

どうも、ここでは、金泰昌氏が理論の次元・位相の混同を起こしているために、極めて錯綜した話に陥るのだと思います。公や公共という言葉の意味は、実体=具体的な組織を指すのではなく、性質やありようを示すものですが、それを実体化させた官や民や私に対応させるために、異なる位相の話が一緒になり、話が混乱してしまうのです。

官であれ民であれ、異なる組織や団体や個人がそれぞれの特性を生かし・協力しながら、【公共世界】をより豊かに開くことが必要なのであり、官は「公」をめがけ、市民は「公共」をめがける、というのでは訳が分かりません。【官という組織は、市民の利益=公共を実現するために、市民の意思とお金でつくられたもの】、という原則を曖昧にしては、わたしたちの「近代市民社会」(民主主義国家)は成立しようがありません。もう一度、「天皇制国家」(天皇に仕える官吏としての公務員)に戻すのでない限りは。

武田康弘
コメント
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