政府や官僚組織のありようを民主主義の原理に合致させること=「公共哲学」の核心
「白樺ML」の公開です。
----- Original Message -----
From: 武田 康弘
To: shira_freeml.com
Sent: Tuesday, April 22, 2008 10:57 AM
Subject: [shira_2878] Re: 国事行為に関する内閣法制局見解
武田です。
杉山さんの危惧は、金泰昌さんの危惧と似ている(天皇の存在についての評価は異なりますが)と思います。
【公権力の解釈=力】の前には一市民は無力で、違和を感じてもどうしようもない、いくら抗っても風の前のチリに同じ、という実感が、
公権力とは異なる【市民の自治としての公共】という概念を生んだのです。
惰性態としての「自民党永久政権+お役所」の現実は誰でもが知っているわけで、このおぞましい【日本の官僚政府】に対してどうしたら【市民がつくり拓く公共領域】を確保できるか?という課題が「公共哲学」を要請したのです。
だから、その意図するところ(市民的な公共という領域を確保してそれを広げていく)は、金泰昌さんや山脇直司さんや稲垣久和さんや小林正弥さんとも一緒(その意味では彼らは同志)なのですが、ただ、それを実現するための基本思想=哲学に違いがあるわけです。
わたしは、国家や政府や官僚組織の位置づけとありようそのものの変革なくしては、ほんとうの改革にはならない、と考えています。「市民の上に国家がある」という想念・思想・価値意識を大元から断つ、そういう意識が生じる人間の意識の深層を抉り出し、それを白日の下に晒すことでその愚劣さを誰の目にも見えるようにすることが必須の営み=核心だと思っています。
だから、「東大病」の具現化であるキャリアシステムを問題にするのですし、更に大きく深い問題である「知」のありようそのもの(事実学の支配とそれを生む言語至上主義)の変革=「根源的な教育改革」に己のすべて、全実存を賭けているわけです。生の現場から撃て!!というわけです。国家の公権力や現実政治をはるか下に見下ろすもの、それが哲学する者の生であり、したがって民主主義社会においては全員が哲学者(恋知者)であるべきだ、というわけです。
政治家とは市民の代行者であり、官僚とは市民サービスマンであり、国家とは国民のためのみに存在していて、それ自身が自立した価値を持たないのです。一人ひとりの市民(=哲学者)による共同経営社会が民主主義国家です。名実ともに主権者である個々の市民の上にたつものは存在しない、この原理を「民主主義の原理」と呼ぶわけで、したがって民主主義社会における国家とは、国民国家でななく、市民国家なのです。
市民国家においては、天皇とは、市民の一般意思を、代行者である為政者に示す儀式を司る者、と位置づけられるでしょう。市民主権の民主主義国家においては、天皇とは市民のしもべ=一般意思を象徴する者としてのみ存在を許されるわけです。主権者の上は存在しないのですから、これは当然の話です。日本国憲法にも、「この地位(象徴)は主権の存する日本国民(The Japanese people)の総意に基づく」と明記されています。文字通りの【君主】はすでに存在せず、象徴としてその名残を留めるに過ぎないのですから、儀礼のみを行う元「君主」のいる国の政治体制は、【立憲象徴君主制】と呼ぶべきでしょう。
また、議員や政府人や官僚は、市民主権を具現化するために働く人であり、もしそうでないならば、彼らには存在する理由・価値はない、これまた原理中の原理です。
杉山さん、みなさん、どうでしょうか?