公共哲学とは、「私」の考えや行為を公共的な広がりを持つものにしようとする営みです。「私」はどこまでも「私」であることをやめないで、同時にふつうの多くの人の利益になる世界を拓こうとする努力ですが、それは、「私」自身の世界を深め豊かにすることでもあります。
公共哲学は、哲学と名乗る限り、法学や経済学や政治学などの個別の知を総合した学際的学問を指すのではありません。もしそうならば、単に「公共学」あるいは「公共社会学」とでも言うべきです。
私が私の生の可能性を広げるには、狭い自我の世界から抜け出なくてはなりませんが、そのためには、「私」をよく見つめ、「私」をよくフルイにかけることが必要です。「私」の存在のありようへの浄化的反省が「公共」世界を開くのです。外なる世界を「私」のものとする営みが「公共哲学」なのです。
その意味では、公共哲学は、皆にとってなくてはならぬものです。狭いエゴの世界に閉じこもり、いまある自分に拘れば、自我を武装し肥大化させる人生を歩むしかなくなりますが、それでは永遠に不幸です。実際的・現実的に自分自身の生の悦び・可能性を広げるには、極めて個人的な領域以外の「私」を公共世界に開くこと=公共哲学が必要です。オープンマインドは、公共世界を生むと同時に「私」をよく活かすのです。
武田康弘
※ 公共哲学論争とその結語は、「恋知」第3章 をごらんください。