沢山知ろうとすると、自分の頭で考えることができなくなります。
これは、誰でも自分の経験を振り返ると分かることでしょう。
哲学とは考える作用・力ですから、現代のように情報や技術が思考の代わりをしてしまうと、ほんらいの≪哲学すること≫は、なくなっていきます。
知的作用のうちで、考えること・考えを交換し合うことほど面白いものはないのに、受験知・試験知が優先し、それを強要される社会では、一番人間的なエロースに満ちた「自分で感じ・思い・考える」ことが奪われ、事実学・技術知・情報知の量の多さを競うツヤ消しの知が大手を振るうことになります。
博識ではなく、考えることで生きたソクラテスや、落第生だったが、宇宙の不思議を考えつづけ、相対性理論を生みだしたアインシュタインや、己の煩悩に悩まされ、朝廷から迫害されても愚直に考え続けて新世界を開いた親鸞や、学業成績はビリに近かったが、己の頭を信じ続けた志賀直哉や武者小路実篤(白樺派)には魅力がありますが、【受験秀才】には、魅力がありません。
自分で考えるのではなく、知識に逃げることで多くを得ようとする精神は、よきものを生まないからです。彼らの求めるのは、自我の満足だけです。
考えない人に魅力がないのは、皆の役に立たないからでしょう。皆にとってのよきもの・面白いもの・楽しいもの・有益なものを生まず、自分の得・満足だけが優先する事実人=思考しない優等生が優遇される社会は、本質的に不幸です。
情報をため込むのではなく、考えることをする。「知る」ことは必要に応じてでいい。わたしはそう考えています。エロース豊かな知=考える世界を共に。
武田康弘
これは、誰でも自分の経験を振り返ると分かることでしょう。
哲学とは考える作用・力ですから、現代のように情報や技術が思考の代わりをしてしまうと、ほんらいの≪哲学すること≫は、なくなっていきます。
知的作用のうちで、考えること・考えを交換し合うことほど面白いものはないのに、受験知・試験知が優先し、それを強要される社会では、一番人間的なエロースに満ちた「自分で感じ・思い・考える」ことが奪われ、事実学・技術知・情報知の量の多さを競うツヤ消しの知が大手を振るうことになります。
博識ではなく、考えることで生きたソクラテスや、落第生だったが、宇宙の不思議を考えつづけ、相対性理論を生みだしたアインシュタインや、己の煩悩に悩まされ、朝廷から迫害されても愚直に考え続けて新世界を開いた親鸞や、学業成績はビリに近かったが、己の頭を信じ続けた志賀直哉や武者小路実篤(白樺派)には魅力がありますが、【受験秀才】には、魅力がありません。
自分で考えるのではなく、知識に逃げることで多くを得ようとする精神は、よきものを生まないからです。彼らの求めるのは、自我の満足だけです。
考えない人に魅力がないのは、皆の役に立たないからでしょう。皆にとってのよきもの・面白いもの・楽しいもの・有益なものを生まず、自分の得・満足だけが優先する事実人=思考しない優等生が優遇される社会は、本質的に不幸です。
情報をため込むのではなく、考えることをする。「知る」ことは必要に応じてでいい。わたしはそう考えています。エロース豊かな知=考える世界を共に。
武田康弘