以下は、公共哲学ml内のメールですが、思想的に重要なものと思うので、ブログにします。
山脇さん、みなさん
わたしは、思想の大元の次元(原理次元)において、公共(市民の共同意思)と異なる公(公共とは異なる官の意思)の存在を認めると、論者の意に反して、官僚とその組織の非ないし反「民主性」を批判する論拠が弱まり、妥協的なものにならざるをえない、と考えているわけです。
原理次元ではなく、その上にあるイデオロギー次元においては、「公共哲学」の山脇さん・小林さん・金さんらとわたしの主張は近いのですが、原理次元における違いは、具体的な課題への対処において大きな齟齬を生むことを長年の経験でつかんでいますので、繰り返し問題にしているわけです。なぜ、三元論でなければならぬのか?それを前提にするならば、われわれの対話は大変難しくなってしまいます。民主主義(主権在民)の徹底化という原理を置くならば、みなが対話できるはずですが、ニ元論、三元論、という対立軸を導入すれば、神学論争にしかならないでしょう。
市民団体の運動も(わたし自身それに深く関わり、さまざまな成果をあげてきました)、公共とは異なる官という世界があるとすると、極めて弱い、従来の左翼運動と同じようなものしか生まず、非生産的なのです。そうではなく、民は、公共性の質を官と競い、官の内容を上回る公共性を示すことが必要なのです。官との共同も、官が主ではなく、民であるわたしたちが主であることをその内容の豊かさによって示し、民を主体にして官がそれをサポートするという形に持ち込まなければダメだと考え、それを実行してきたわけです。
官が民のコントロール下に置かれるのは「主権在民」の原理から当然の話ですから、官僚は一般市民のサービスマンなのだという自覚をしっかりもち、その立場から(それ以外の立場はない)「サービスマンとしての仕事」に誇りを持って取り組むことが求められるのです。
以上は、原理次元の話ですが、ルソーの「社会契約」や「一般意思」もわたしの思想とほぼ同じものでしょう。どうもこの「一般意思」に対する偏見をもつ学者が多く(竹内芳郎さんや竹田青嗣さんはきちんと捉えています)、困ったものだと思いますが、みなさん、ぜひ、『社会契約論』を初稿(ジュネーブ草稿)も含めてゆっくり時間をかけ、文脈にそって再度読んでみてください。なお、いうまでもありませんが、ルソーは文学者ですから、レトリックが多用されていますので要注意です。
少なくとも民主主義を成立させる社会原理としては、わたしは【公論の形成ーそのために絶対に必要な義務教育における自由対話と自治の練習ー】以上のものはないと考えていますが、ルソーの人民主権論に基づく社会契約(約束)ー契約といっても経験レベルでの契約ではなく、それを成立させる基本条件となる契約ーしたがって【原契約】と呼ぶべきもの)と、「一般意思」の思想は、近代民主主義にとって最重要である、そうわたしは確信しています。
現実次元において、公論(一般意思)の形成をどのようにして担保するか?という課題はまた別に論じなければならぬことで、両者を混同させて語ってはなりません。
武田康弘