以下は、内田さんとわたしとの個人メールですが、大事な思想問題ですので、公開します。
ご意見・ご感想をご自由にコメントしてください。
――――――――――――――――――――
内田です。
武田先生、
・・・・・・・
哲学を専門知や技術知と考えているとしたら困ったことで、哲学を特権化したら大学で学ぶだけの学問となり一層現代社会から取り残されるでしょう。
そこで武田先生の意義は重大となります。『君たちはどう生きるか』のようなものは少数派です。純粋学問としての哲学は必要です。ただし一般の人々(市民)には、武田実践哲学の方が実生活の体験から成り立っており、より具体的かつ現実的に納得がいくのです。
あまりにも前者のような哲学が主流だったということでしょう。明治・大正期より日本では、田中王堂のような『書斎から街頭へ』というような哲学者は異端であり非主流でした。
王堂の弟子で私が勉強している石橋湛山の言葉を参考に記します。正に石橋湛山は、主観性の哲学を主張した人でした。
石橋湛山評論集(岩波文庫)より「哲学的日本を建設すべし」から引用抜粋
けだし吾輩が今あげたる我が国の或る人の訴訟問題というものの根底に横たわれる思想はいかなるものであるかというに、浅薄弱小なる打算主義である。吾輩は敢えてこれを「浅薄弱小なる」という。何となれば、たとえ打算主義であっても、それがもし深刻強大なる打算主義であるならば、そは決してかくの如き泣き寝入りというが如きことに終わるべからざるものであるからである・・・中略
しからば吾輩の認めて以て我が国現代の通弊となす処のものは何か。曰く、今述べたる利己につけても利他につけてもその他何事につけても、「浅薄弱小」ということである。
換言すれば「我」というものを忘れて居ることである。確信のないことである。迫力の足りないことである。右顧左眄することである。
例えばこれを我が外交に見よ。我が外交家は口を開けば常に言う、我に誠意ありと。しかしながら彼らのいういわゆる誠意とはそもそもいかなるものであるか。吾輩はそこに諸外国に対する気兼気苦労よりほかに何者をも認めることはできない。
また例えばこれを我が政党政治家に見よ。彼らは口を開ければ即ち言う、我ら虚心坦懐ただ国政を思うのみと。しかしながら彼らの言ういわゆる虚心坦懐とはそもそもいかなるものであるか。吾輩はそこにただ御都合主義と馴れ合いと無定見とのほかに何者をも認めることは出来ない・・・
しかし、これを要するに、彼らは皆善人であるのである。義人であるのである。善人であるが、ただ不幸にして彼らの自己なるものが浅薄弱小であるのである。その自己が浅薄弱小であるがゆえに、彼らは他に気兼気苦労し、馴れ合いに事を遂げんとし、意気地なき繰言を繰り返しておるのである。而して断々乎として自己を主張し、自己の権利を権利として要求することが出来ないのである。
しかしながらここに問題となってくることは、しからば我が現代の人心は何故にかくのごとく浅薄弱小、確信なく、力なきに至ったかということである。吾輩はこれに対して直ちにこう答える。
曰く、哲学がないからである。言い換えれば自己の立場についての徹底せる智見が彼らに欠けておるが故であると。
例えばこれを吾輩が前に挙げた外交家の例に取ってみよ。彼らには日本の立場がわからないのである。日本の現在および将来の運命を決する第一義はどこにあるか。徹底した目安がついておらないのである。徹底した目安がない。だから彼らはやむを得ず、その時々の日和を見、その時々の他人の顔色を窺がって、行動するより他に道はないのである・・・
けだし徹底せる智見は力である。徹底せる智見なきが故に、主張すべき自己がわからず、主張すべき自己がわからぬ故に、即ちその我は弱小浅薄非力無確信となるのである・・・
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内田さん
叮嚀なメール、感謝です。
①
「田中王堂の弟子で私が勉強している石橋湛山は、主観性の哲学を主張した人でした。」 (内田)
ここで言われている「我」や「自己の立場についての徹底せる智見」とは、わたしの言い方では、「私」という力のことですね。
わたしの、「私」の三元論(①個人領域②公共人領域③組織人領域→立体的に「私」の世界を意識することで、わたしの世界に複眼的なエロースと広がりをうむ)と重なると思います。
②
次にイデアについてですが、
イデア(誰であれ必ず「価値意識と共に世界を見る」という人間の本質から必然となる理念世界)とは、人間であることの証=原事実ですが、そのことを明晰に意識するのが人間として生きる(=自覚的な生)ための基本条件だ、というのが武田のイデア論です。
武田
―――――――――――――――――――――――――――――
武田先生
こちらこそお礼申し上げます。いつもご多忙なところご返信
忝く思っております。
②について
大変納得のいくご説明です。
大学の恩師と今華厳哲学を勉強しています。華厳では、現実の世界(価値意識も含む)を「事法界」と言い、理念・本質の世界を「理法界」と言います。イデアに当たるのが「理法界」です。そして「理事無碍法界」を通り「事事無碍法界」へ至ると言います。
事事無碍法界とは、現実世界を解体した後(跡)の理念・本質世界を通り抜けてまた現実の価値意識を含む世界へ戻ってきた世界を言います。イデアの世界を自覚した後(跡)の現実世界は、素朴実在論的な最初の現実とは異なった見方で現実の世界を自覚的に生きるのです。
東洋の哲人は、現実世界で生きるとはイデアの世界を明晰に意識し上での経験なのです。
先生のイデア論大変参考になりました。プラトンも華厳も、実践哲学ですので大変共通しているようです。
①について
ありがたいご意見です。
そもそも私の世界を(立体的に)意識すること無しに他者の世界を意識することは出来ません。
私の中には様々な領域があると思いますが、石橋さんが言っている「我」「自己の立場についての徹底的せる智見」という力がないと、確信の無い、迫力の足りない「弱わっちい人間」が出来てしまうでしょう。(典型的東大病人)
主観的な知とは、認識・行為・評価などを行う意識をもつ人間存在の中心である我(主観)を徹底的な智見でもって深く、強く、鍛え耕す思考であり、また行為であるはずと思います。
その行為に重きを置けば、主体的な知とも言えるでしょう。
国家にも言えます。自国の立場に対する徹底的智見のないところで、他国と議論してもコミニケーションは成立せず、交渉不成立、結局迫力負けした挙句のはてに軽蔑されることになりかねません。(沖縄の基地問題等)
私は、先生の「私」という力と石橋さんの「我」「自己の立場についての徹底的智見」が大変近い思想と確信しました。その前提があってこそ、他者や他国との交わりが成立し、相互信頼や相互理解・相互尊敬が得られるでしょう。
話しは変わりますが、柳宗悦さんと石橋さんの思想は、ジェイムズのプラグマティズムを通じて大変近い立場と思います。柳さんと石橋さんの交流はほとんど無いと思いますが、石橋さんは白樺思想に近い思想家で公共哲学にも大切な思想家(活私開公の思想家)と見ています。
そのような文脈で石橋さんの思想を白樺周辺の思想に位置づけ、今後の私の勉強課題にしたいと思っています。(数年のうちには大学の哲学会で報告したいと思っていますので先生にも恐縮ですがご相談出来れば幸いです)
師走真っ只中で先生もご多忙とおもいます。お元気で。また連絡します。
内田卓志
ご意見・ご感想をご自由にコメントしてください。
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内田です。
武田先生、
・・・・・・・
哲学を専門知や技術知と考えているとしたら困ったことで、哲学を特権化したら大学で学ぶだけの学問となり一層現代社会から取り残されるでしょう。
そこで武田先生の意義は重大となります。『君たちはどう生きるか』のようなものは少数派です。純粋学問としての哲学は必要です。ただし一般の人々(市民)には、武田実践哲学の方が実生活の体験から成り立っており、より具体的かつ現実的に納得がいくのです。
あまりにも前者のような哲学が主流だったということでしょう。明治・大正期より日本では、田中王堂のような『書斎から街頭へ』というような哲学者は異端であり非主流でした。
王堂の弟子で私が勉強している石橋湛山の言葉を参考に記します。正に石橋湛山は、主観性の哲学を主張した人でした。
石橋湛山評論集(岩波文庫)より「哲学的日本を建設すべし」から引用抜粋
けだし吾輩が今あげたる我が国の或る人の訴訟問題というものの根底に横たわれる思想はいかなるものであるかというに、浅薄弱小なる打算主義である。吾輩は敢えてこれを「浅薄弱小なる」という。何となれば、たとえ打算主義であっても、それがもし深刻強大なる打算主義であるならば、そは決してかくの如き泣き寝入りというが如きことに終わるべからざるものであるからである・・・中略
しからば吾輩の認めて以て我が国現代の通弊となす処のものは何か。曰く、今述べたる利己につけても利他につけてもその他何事につけても、「浅薄弱小」ということである。
換言すれば「我」というものを忘れて居ることである。確信のないことである。迫力の足りないことである。右顧左眄することである。
例えばこれを我が外交に見よ。我が外交家は口を開けば常に言う、我に誠意ありと。しかしながら彼らのいういわゆる誠意とはそもそもいかなるものであるか。吾輩はそこに諸外国に対する気兼気苦労よりほかに何者をも認めることはできない。
また例えばこれを我が政党政治家に見よ。彼らは口を開ければ即ち言う、我ら虚心坦懐ただ国政を思うのみと。しかしながら彼らの言ういわゆる虚心坦懐とはそもそもいかなるものであるか。吾輩はそこにただ御都合主義と馴れ合いと無定見とのほかに何者をも認めることは出来ない・・・
しかし、これを要するに、彼らは皆善人であるのである。義人であるのである。善人であるが、ただ不幸にして彼らの自己なるものが浅薄弱小であるのである。その自己が浅薄弱小であるがゆえに、彼らは他に気兼気苦労し、馴れ合いに事を遂げんとし、意気地なき繰言を繰り返しておるのである。而して断々乎として自己を主張し、自己の権利を権利として要求することが出来ないのである。
しかしながらここに問題となってくることは、しからば我が現代の人心は何故にかくのごとく浅薄弱小、確信なく、力なきに至ったかということである。吾輩はこれに対して直ちにこう答える。
曰く、哲学がないからである。言い換えれば自己の立場についての徹底せる智見が彼らに欠けておるが故であると。
例えばこれを吾輩が前に挙げた外交家の例に取ってみよ。彼らには日本の立場がわからないのである。日本の現在および将来の運命を決する第一義はどこにあるか。徹底した目安がついておらないのである。徹底した目安がない。だから彼らはやむを得ず、その時々の日和を見、その時々の他人の顔色を窺がって、行動するより他に道はないのである・・・
けだし徹底せる智見は力である。徹底せる智見なきが故に、主張すべき自己がわからず、主張すべき自己がわからぬ故に、即ちその我は弱小浅薄非力無確信となるのである・・・
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内田さん
叮嚀なメール、感謝です。
①
「田中王堂の弟子で私が勉強している石橋湛山は、主観性の哲学を主張した人でした。」 (内田)
ここで言われている「我」や「自己の立場についての徹底せる智見」とは、わたしの言い方では、「私」という力のことですね。
わたしの、「私」の三元論(①個人領域②公共人領域③組織人領域→立体的に「私」の世界を意識することで、わたしの世界に複眼的なエロースと広がりをうむ)と重なると思います。
②
次にイデアについてですが、
イデア(誰であれ必ず「価値意識と共に世界を見る」という人間の本質から必然となる理念世界)とは、人間であることの証=原事実ですが、そのことを明晰に意識するのが人間として生きる(=自覚的な生)ための基本条件だ、というのが武田のイデア論です。
武田
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武田先生
こちらこそお礼申し上げます。いつもご多忙なところご返信
忝く思っております。
②について
大変納得のいくご説明です。
大学の恩師と今華厳哲学を勉強しています。華厳では、現実の世界(価値意識も含む)を「事法界」と言い、理念・本質の世界を「理法界」と言います。イデアに当たるのが「理法界」です。そして「理事無碍法界」を通り「事事無碍法界」へ至ると言います。
事事無碍法界とは、現実世界を解体した後(跡)の理念・本質世界を通り抜けてまた現実の価値意識を含む世界へ戻ってきた世界を言います。イデアの世界を自覚した後(跡)の現実世界は、素朴実在論的な最初の現実とは異なった見方で現実の世界を自覚的に生きるのです。
東洋の哲人は、現実世界で生きるとはイデアの世界を明晰に意識し上での経験なのです。
先生のイデア論大変参考になりました。プラトンも華厳も、実践哲学ですので大変共通しているようです。
①について
ありがたいご意見です。
そもそも私の世界を(立体的に)意識すること無しに他者の世界を意識することは出来ません。
私の中には様々な領域があると思いますが、石橋さんが言っている「我」「自己の立場についての徹底的せる智見」という力がないと、確信の無い、迫力の足りない「弱わっちい人間」が出来てしまうでしょう。(典型的東大病人)
主観的な知とは、認識・行為・評価などを行う意識をもつ人間存在の中心である我(主観)を徹底的な智見でもって深く、強く、鍛え耕す思考であり、また行為であるはずと思います。
その行為に重きを置けば、主体的な知とも言えるでしょう。
国家にも言えます。自国の立場に対する徹底的智見のないところで、他国と議論してもコミニケーションは成立せず、交渉不成立、結局迫力負けした挙句のはてに軽蔑されることになりかねません。(沖縄の基地問題等)
私は、先生の「私」という力と石橋さんの「我」「自己の立場についての徹底的智見」が大変近い思想と確信しました。その前提があってこそ、他者や他国との交わりが成立し、相互信頼や相互理解・相互尊敬が得られるでしょう。
話しは変わりますが、柳宗悦さんと石橋さんの思想は、ジェイムズのプラグマティズムを通じて大変近い立場と思います。柳さんと石橋さんの交流はほとんど無いと思いますが、石橋さんは白樺思想に近い思想家で公共哲学にも大切な思想家(活私開公の思想家)と見ています。
そのような文脈で石橋さんの思想を白樺周辺の思想に位置づけ、今後の私の勉強課題にしたいと思っています。(数年のうちには大学の哲学会で報告したいと思っていますので先生にも恐縮ですがご相談出来れば幸いです)
師走真っ只中で先生もご多忙とおもいます。お元気で。また連絡します。
内田卓志