思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『新憲法の誕生』 古関彰一(こせきしょういち)著 中公文庫

2009-12-18 | 書評

『新憲法の誕生』は、1989年に出され、その年の吉野作造賞を受賞した名著です。
著者は、NHKの大変見応えのある教育番組『民間人7人による焼跡の憲法草案』(2007年)で解説者を務めた古関彰一さん(獨協大学教授)です。
古い本ですし、学術的なものですが、序文に正鵠を射る感動的な叙述がありますので、写します。

「・・・戦争と圧政から解放された民衆が、憲法をよろこび、歌い、踊り、山あいの山村青年が憲法の学習会を催し、自からも懸賞論文に応募する姿は、近代日本の歴史において、この時を除いて見られない。そればかりではない。制定過程の中でたしかに官僚の役割は無視できないが、つねに重要な役割をはたしてきたのは、官職にない民間人、専門家でない素人であった。日本憲法が今日においてなおその現代的意義を失わない淵源は、素人のはたした役割が極めて大きい(戦争の放棄条項を除いて)。当時の国会議員も憲法学者もその役割において、これら少数の素人の力にはるかに及ばない。GHQ案に影響を及ぼす草案を起草したのも、国民主権を明記したのも、普通教育の義務教育化を盛り込んだのも、そして全文を口語化したのも、すべて素人の力であった。
かつて米国憲法150周年(1937年)にあたり、ローズベルト大統領は「米国憲法は素人の文書であり、法律家のそれではない」と」述べたが、近代国家の憲法とはそもそもそういう性格を持っている。
古来、日本において「法」とは「お上」と専門家の専有物であった。その意味からすれば、やはり日本国憲法は小なりとはいえども「新しい」地平を切り拓いたのである。こう考えてみると、そこに冠せられる名は、老いてもなお「新憲法」がふさわしい。」(15-16ページ・「序 新たな視座を求めて」の末尾)

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95年の文庫版では、「あとがき」で、

1946年2月に読売新聞に昭和天皇が戦争責任をとって退位する意向が発表されたことを受けて、マッカーサーはそれを阻止するために、急いで天皇に「勅語」(政府に対して、平和・民主主義・人権尊重を内容とする新憲法をつくるように命ずる)を出させた事実をあげています。

GHQが憲法の制定を急いだ理由を、極東委員会が設置されることになった為だけではなく、マッカーサーが、天皇制反対の世界の空気を阻止するためであったことが明らかにされています。連合国が求めた天皇の戦争責任を免責し、天皇の地位を確立する必要から民主的な新憲法の制定を急いだというわけです。

また、宮内庁という役所の異常性についても指摘しています。「天皇の地位はこの憲法によって明治憲法上のそれとは根本的に変化したのであったが、宮内庁を中心とした統治機構内部において、皇室の儀式や慣行は旧来のまま行われ、・・」と、天皇現人神の戦前と変わらない官僚機構の代表が「宮内庁」であることが記されています。


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