思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

経済が元気になっても日本人は元気にはなりません。

2010-09-05 | 教育

経済が元気になっても日本人は元気にはなりません。
今のままの考え方では、経営者の支配力が強まるだけで、個人の幸福には結びつかないのです。経済は、どこまでも人間生活の手段であり、それが目的ではないのですが、手段と目的を取り違えている人は、人間としての豊かさ・面白さ・楽しさを知らず、元気は覇気にしかなりません。今の思想とシステムは、経営者独裁で、個々人の幸せを拡げる「経済の公共性」がないのです。最悪の資本主義!

当然ですが、個々人の「個性を互いに楽しみ合う愛の文化」は、競争主義からは生まれないのです。誰が勝ったか、どれほど勝ったか、ということばかりに注目する社会では、攻撃性だけが強まって、人間の心身の満足・意味の了解による頭の充実という悦びの世界はやってきません。どのような考え方・生き方がよいのか、という哲学的探求と検証なしに勉強や仕事に取り組むのでは、「根なし草の生」となり、底なしの不幸に陥るほかないはずです。人々をな根なし草にする人間性破壊の資本主義は、悪でしかありません。公共的な善を広げる「人間を豊かにする資本主義」への転換はどうしたら可能か、それを考えることが焦眉の課題です。

では、この不幸、「幸福をつくらないシステム」を実際に生みだしているのは、なんでしょうか?

それは「教育」だとわたしは見ています。
とりわけ中学校における教育の管理化は、市民社会の常識とかけ離れていて、柔らかな心の広がり、豊かな人間性、個人の独自の面白さを開花させることを阻害しています。そもそも、人間の教育と物やシステムの管理とは正反対の概念であることさえ知らない教育者が多いのには、閉口してしまいますが、「人間とは何か」という実存論的探求抜きの教育は教育ではなく、単なる一技術でしかないでしょう。それでは人間は管理される物品として扱われる他なくなるのですが、「人間性」に鈍感な人は、その恐ろしさに気付かないようです。「根本的に考える力と人間性の豊かさ」はセットなのですが、残念なことに、これを潰す教育が大手を振っているのです。

その実際、豊かな人間性を奪う「仕組み」については、次回に。

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コメント

教育こそ。 (Cmoon)

2010年09月06日 21:43

小沢さんも菅さんも、経済政策に言及しましたが、教育にはほとんど語っていませんね。
特に菅さんの経済政策には、創造性が感じられません。具体性にも欠け東大病の重症患者、財務省官僚の政策を右へならえ式に取り入れ、お茶を濁す程度に形容詞をつけただけの貧困な政策です。
一律10%カットのどこに創造性が生まれるでしょう。農林業、漁業、工業、商業、貿易、外交、医療福祉……そして、すべての基本となる教育に希望の光が当てられていません。
たいしたセーフティーネットもなく、緊縮財政、規制緩和の中で行われるのは、小泉構造改革と同じような、市場経済原理の再登場ではないかと危惧しています。
そうした中で、教育はさらに荒廃していくように推察します。
経済的貧困だけが、教育を荒廃させるのではなく、創造性に欠けた苛酷な競争原理が、人々の心を萎えさせ、たとえそれによって経済が再生されたとしても、さらなる競争原理が働き、心を荒廃させると思います。
荒廃した心に対して行われるのは、さらに強化された管理化。
悪循環ですね。

経済は低成長でもいい。安定していればそれでいいと思います。
競争原理一筋の社会よりも、ささやかな安定とささやかなゆとり社会の中で競争原理の中で見えなかったものが見えてくる。創造性が生まれる。管理を解くことができる。そんなふうに思います。

書かれた要旨からピントが外れたコメントです。
まだまだ、考る力が不足していると感じる今日この頃です。

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タケセン 2010年09月06日 23:50

いやいや、
Cmoonさんのコメントは、わたしの「抽象」をいつも見事に「敷衍」してくれるので、とても感謝です。
さすがです。

競争は、人間が豊かな精神をもって生きる上でよきものを獲得する限り有用ですが、競争を主義にまで格上げすれば、ひどく不幸です。
競争原理から納得原理への転換が必要ですが、教育がそれを阻んでいます
コメント (1)
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