思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

サンデル教授の困った思考法に倣う大学人

2010-09-17 | 趣味
下のブログに対する荒井達夫さんのコメントに返信しましたが、大事な問題ですので、ブログにします。


わたしの指摘は、
サンデル教授の思考法が、
極限状態における人間の行為の是非と、日常生活における社会思想の良否を混同させてしまうために(=次元の混同)社会・人間問題の適切な分析にも解決にもならず、思考を混乱させるだけである、
とのものです。
これは、ソフィストの思考法(ディベート=言語ゲーム)であり、真実を目がけるソクラテスの問答法(ディアレクティケー)とは無縁です。

ところが、これはひとりサンデル教授の思考法の欠陥ではなく、多くの大学人に共通する実に困った問題です。単なる「事実学」(フッサールの概念)の累積が学問だと信じ込んでいる大学人の多数派は、知を硬直化させ、知から有意味性を奪っています。事実学とは、受験知の延長上にある「パターン知=二次元的な平面知」のことですが、立体から見れば影に過ぎない世界を実像だと思い込むために(比ゆ的には、写真を現実と混同するものと言えます)、言葉の上の問題を現実の問題としてしまい、いたずらに混乱を招く形式論理なのです。

小林正弥さんらの公共哲学が言葉の遊戯・造語趣味に陥るのは、頭脳(=思考構造)が立体化していないために、平面的思考の枠内で現実問題に取り組まざるを得ないからです。形式論理でしかない「事実学」の累積では現実問題を解決する視座が得られないために、「霊性」をプラスして、公共哲哲学運動を【公共的霊性(スピリチュアル)】の運動としていますが、これを公金で行っているのですから、なんとも酷い話です。

人間の生の問題や社会問題を考えるには、『意味論・本質論』として取り組まなければならず、『事実学』の累積ではどうしようもないのですが、そのことの明晰な認識を持つ人が少数なのは、ほんとうに困った問題(知のありようと教育)です。

事実学だけなら、勉強時間を増やして暗記すればいいのですが、そのような頭の使い方をしていれば、論理とはイコール「形式論理」となり、知は【受験知・官知】という狭く固い非人間的な〈形式知〉に堕ちる他ありません。まさに「人間を幸福にしない知」と言えます。いま何よりも必要なのは、ディアレクティケーの営み=実践なのあり、サンデル教授ら大学人の次元を混同させた言語ゲームや事実学ではありません。


武田康弘

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コメント

思考停止 (荒井達夫)
2010-09-19 00:03:04

難破船の乗組員4人がボートで漂流し、生きるために弱った者を殺して食べた。その行為の是非を議論するのに、社会運営の基本原理であるベンサムの最大多数の最大幸福を持ち出すのは、「筋違い」も甚だしい。問題に対する議論の仕方が明らかに間違っています。何か変だな、と思わない方がおかしいのです。「思考停止」というほかありません。
コメント (1)
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