思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

実存の引き受け=責任は、はじめの一歩。

2010-09-21 | 恋知(哲学)
9月7日のブログ「個人レベルでも公共レベルでも、よき人間の生にとって最も重要なのは、【責任】です」は、サルトル哲学の核心点についてでしたが、これに対して、内田卓也さんから以下のメールをもらいましたのでご紹介します。


武田先生
私の大学の時はすでにサルトルは、過去の遺物のようでした。ポストモダンの流行
(構造主義や脱構造主義)でサルトルのことはあまり話題にならなかったのです。
ただ、私はいまだにサルトルに惹かれます。あの楽天的ともいえる彼の思想の明るさ
は、いったいどこから来るのでしょうか?
サルトルの自由と責任とそして覚悟の問題、武田先生の主張に共感します。
ただ、私には「強い思想」過ぎる感じなのです。私の感じなので人によって違うので
しょう。私は、現代日本のことを考えすぎなのでしょうか、責任(自己責任)や自立
(律)を強調するには、あまりにも日本の社会基盤が弱いのです。正社員どころか、
就職先もなく絶望している若者に責任を強調しても無理でしょう。だから、私は「弱
い個人」を想定して考えたいと思います。責任を持ちたくても持てない社会におかれ
ている個人が問題なのです。構造改革以来の社会的中間層の弱体化の促進が一層進ん
でいます。
そこで大切なのは、やはり教育でしょう。ここを原理的に改革しない限り、一時経済
が回復してもダメだと思います。(経済のことは次の機会に)それでも当面の経済回
復は必要です。
「神だの運命だの遺伝だの・・・という遁辞は一切許されない。どこまでも「私」
は、己の存在を引き受けて生きる以外にはないことの【覚悟】を与えてくれたのがサ
ルトル哲学でした。」それが実存であり、そこに自由が開け、倫理的に生きることも
出来るという思想、その思想を選び取るのも他者には代替不可能なこの「私」である
ところの実存なのでしょう。全く賛成です。ただ、実存として生きる決断をするには
あまりにも酷な状況を作ってしまったのは、私を始め大人たちの責任が大だと思って
います。私の今思っている素朴な感想です。弱い個人を前提として、その個人が責任
や自覚や決断を可能とする地平である自由を選びとれる哲学が創れないでしょうか。
如何ですか。白樺の方々は切実に考えておられるかもしれません。  内田


――――――――――――――――――――――――――――――――――

内田さん

わたしは、人間が生きる上で一番基本となるのは、自分の存在を「引き受ける」ことにあると思うのです。たとえ、それがどのようなものであったとしても。
もちろん、自分の存在は、自分で「引き受ける」以外にはないのですが、核心は、そのことの明晰な自覚です。

「神だの運命だの遺伝だの・・・という遁辞は一切許されない。どこまでも「私」は、己の存在を引き受けて生きる以外にはないことの【覚悟】を与えてくれたのがサルトル哲学でした。」
と、わたしは書きましたが、それは、一つの思想ではなく、人間の生の普遍的な原理です。それ以外はないのです。

たとえ、実存として生きたくなくとも、そうする他はありません。そのことを深く自覚できた時、誰であれ、人生は変わります。そこから人間としての生が始まるのです。「責任」の意識と行為=「引き受ける」ということ、それがはじめの一歩です。

無意識的・受動的引き受けから、自覚的・能動的引き受けへのコペルニクス的転換、それが人間のよき生の条件なのです。


武田

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする