思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

個人レベルでも公共レベルでも、よき人間の生にとって最も重要なのは、【責任】です。

2010-09-07 | 恋知(哲学)

わたしが20代のころ、サルトル哲学に惹かれたのは、その【責任】を強調する思想にありました。

有名な「実存は本質に先立つ」という命題が、どのような決定論も存在しないことの明晰な自覚をもたらす思想であることを知り、人間はいかなる支えもなく、たえず己を人間としてつくり出すべく宿命づけられていることを了解したとき、わたしは、【人間になった】と感じ、深いよろこびを得ました。

人間は、存在論的には自由であるほかないという自覚と、
現実次元における【自由】の行使が【責任】を生み、その責任を「私」が引き受けるということ。
それこそが主体者としての人間の人生です。

神だの運命だの遺伝だの・・・という遁辞は一切許されない。どこまでも「私」は、己の存在を引き受けて生きる以外にはないことの【覚悟】を与えてくれたのがサルトル哲学でした。

わたしは、私の人生を日々創造しながら生きる。抽象的に人が生きるのではなく、私が生きるのです。己の存在は己が引き受けるより他にありません。この【根源的な責任】の思想ほど人間を自由にするものはないのです。表層的な自由ではなく、精神の奥深くの自由です。勝手気まま、その場その時の都合で揺れ動くというのではなく、「私」が己の存在を引き受けて行為するという自由は、強い責任意識を生み、人間を真に倫理的な存在とします。それが深い人間的魅力をつくるのではないか、わたしは、ずっとそう思って生きてきました。


武田康弘
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陳述書 ーー 土肥 信雄

2010-09-07 | 教育

以下は、言論の自由を奪う【悪しき官の象徴】である『東京都教育委員会』と闘う良心の教育者・土肥信雄さんの陳述書です。
長文のなので、3回に分けます。良識ある市民みなの力で、教育の現場に民主主義をつくりだしましょう。

(「生徒がくれた卒業証書」の本もぜひ。)


陳述書   土肥 信雄


私は34年間の小学校、高等学校の教師生活を通じ、勉強がきらいな子ども、運動の得意な子ども、障害を持った子ども等々、様々な子どもと関わってきました。私は教師として当然のことですが、どの子どもにも幸せになってほしいと願っています。そのためには、一人ひとりの基本的人権が保障される、平和な社会でなければならないのです。

第1次世界大戦を体験した世界の人々は、戦争は子どもにとって最悪なものとして、1924年、国際連盟において子どもの権利に関するジュネーブ宣言を採択して国際的に子どもの権利を認めました。第2次世界大戦を体験した日本は、日本国憲法前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」と不戦の誓いを述べ、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を三大理念とし、民主的な国家を目指したのです。基本的人権の尊重と平和主義を私のポリシーとしたのは、まさしく民主主義社会の中で子どもの幸せが保障されるからなのです。

その基本的人権のなかでも最も重要なのが、言論の自由だと思っています。国民の意見を反映できる民主主義政治にとって、言論の自由は絶対不可欠です。言論の自由がない民主主義や平和はありません。「おかしいと思ったら、声をあげる自由。これを失った時、本当の意味で国は滅亡の道を辿るんだ。」(『アメリカから自由が消える』 堤未果著 扶桑社新書)の言葉はまさにそのことを表わしており、言論の自由がない組織は独裁化し、腐敗し崩壊していくのです。戦前の日本、ソビエト、船場吉兆、ミートホープ等々、組織の大小に関わらず崩壊したのです。言論の自由こそ組織を活性化し、組織が発展していく最大の要素なのです。
学校は日本国憲法の理念に基づいて、教育基本法第1条にあるように、平和で民主的な国家、社会の形成者として必要な資質を備えた国民の育成をその目的とするものです。そのためには、学校そのものが言論の自由を保障し、民主的に運営されなければならないのです。教育の主体者は生徒です。教育という組織的、意図的営みは、教職員の主導権により、子どものために行われます。教職員の言論の自由が保障されなければ、教育の主体者である子どもの言論の自由も保障されないことは、戦前の教育を考えれば明らかです。

言論の自由が保障されているからこそ、私は政治経済の教師として生徒達に「自分の意見は間違っていてもはっきりと言いなさい。」と教えてきました。自分の意見を言うことは、ほとんどの日本の学校の教育目標に掲げられている「生徒の主体性、自主性」を育てることなのです。私は生徒にそのことを教えてきた責任からも、自分の思ったことを発言せずに、権力にへつらうことはできません。

教育は誰のためですか?生徒のためです。2009年3月24日の離任式で、卒業生から卒業証書と全クラスからの色紙をもらったことは、私の教育活動が評価されたことではないのでしょうか?都教委に従順に従わなければ、私の教育活動は評価されないのでしょうか?

私は法律や法令に違反するようなことは一切やっていません。都教委の通達、通知通りやってきました。「教職員の意向を聞く挙手・採決の禁止」の通知後、職員会議で教職員に説明した後は、三鷹高校では意向を聞く挙手・採決はやっていません。卒業式等においては、全日制では包括的職務命令も個別的職務命令も、定時制では包括的職務命令を出しています。業績評価も実施要領どおり18年度、19年度、20年度と提出しました。私は教育現場から言論の自由がなくなるのを恐れて、意見表明をしただけです。法令遵守は私のポリシーです。なぜなら、民主主義社会の日本では、選挙はほぼ公平に行われており、選挙で選ばれる議員や首長等は民意を反映していると思っているからです。したがって私と意見が違っていても、民意を反映している人達によって制定された法令等には従うことが民主主義だと思っています。もし自分の意見と違う法律は守らないとなれば、全ての人がそのように考え、無政府状態の社会になります。無政府状態の社会は、ホッブスが唱えた「万人の万人に対する闘争」が発生し、結局は弱肉強食の社会になり、弱者にとって非常に不利な社会になることは明らかです。そして、民主主義社会だからこそ少数意見は尊重されるべきであり、法令に違反しない限り、批判、意見表明は保障されているのです。

私の意見表明に対して、都教委は私が納得する回答をしてくれませんでした。この言論の自由の問題は、民主主義の根幹に関わることなので、都教委に公開討論を要求しました。しかし、公開討論にも応じてくれませんでした。やむを得ず、裁判所に提訴したのです。裁判という公開の場で意見をたたかわせ、国民、都民の皆さんの公平な判断を仰ぐためです。

私は大学卒業後大手総合商社に入社しました。しかし利益のためなら、法律さえも犯す(談合)企業にはなじめませんでした。経済的にも社会的にも安定した生活が保障されていましたが、将来の日本を担う子ども達に、平和で公平な社会を作ってもらいたいと思い、言論の自由のある教員になったのです。教員になったのは、言論の自由があったからです。いまさらその言論の自由を奪われたら、私が商社を辞めた意味が無くなり、私自身が無くなってしまうのです。言論の自由だけは、平和で豊かな社会を守るために譲れないのです。

それではこれからそれぞれの事象について、私と都教委の主張が全く違いますのでそのことについて意見を述べたいと思います。どちらの主張が真実であるかどうか是非ご判断ください。
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