わたしは、こどもたちの勉強をみることを中心にして生活していますので(大学生や社会人クラスの授業もしていますが)、こどもたちが素直に表す価値意識や親の本音と日常的に「お付き合い」しています。
そこで何十年間もずっと感じてきたことですが、
大人がこどもに求めるものが【技術知】でしかないことです。「パターン知」を身につけさせるのが頭(知)の教育だと思っていて、
何がほんとうか?を求めて「考え方・生き方」を考えるという一番大事な生の土台については、追求がないのです。
各人が元来もつ個人性のさまざまな「よさ」を豊かに拓き、人間が人間として生きる上で一番大事などのように生きるかという「主観性」の世界を開発する努力がない、というよりも、そのことがどれほど必要・大切かの認識がないのです。広い意味(ほんとうの意味)での哲学がないのです。
そのために、知的ということの価値がとても小さくなり、勉強は受験勉強へと貶められてしまいますが、それが「悪」であるという認識もありません。豊かな知的世界は消えうせ、序列という愚劣な想念だけが支配しています(いわゆる「東大病」という集団的精神疾患)。暗記とパターン知だけで、自分の具体的経験を踏まえて自分で考える知がありません。哲学までも本の読解と哲学史の知識でしかなくなっています。これはほんとうに恐ろしい事態です。
わたしは、参議院事務局企画調整室の発行する『立法と調査』(別冊2008.11)に依頼されて「キャリアシステムを支える歪んだ想念」という論文を執筆しましたが、そこでは、わたしの言葉である【客観学】と【主観性の知】という概念を用いて、日本の知的教育の問題点を簡明に記しました。その一部を以下に写します。
「読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。
従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます。」(P.51)
知に対する見方・態度の酷い歪み(客観神話)こそ、わが国の最大・最深の問題であり、あらゆる困難や不毛な対立はそこから出てくることを知らなければ問題解決の可能性はないのです。
各自が「主観性の知」を豊かする努力を始めましょう。序列意識と権威主義はそのための最大の障害です。ありのままの「私」の意識をよく見つめ、そこから一歩ずつ歩む。あせらず、ゆっくりと、でなければ豊かな知と世界は開けません。
武田康弘