戦前の日本(1945年の敗戦まで)では、『大日本帝国憲法』の下、天皇は国家の主権者で陸海軍の統帥権をもち、現人神(生きている神)として遇せられていました。
したがって、その一族は、特別な人間(創造神の末裔)とされたので、彼らを呼ぶ時は、皇族のみの特別な敬語が用いられたのです。
ところがわが国は、中国大陸への侵略(陸軍の陰謀で張作霖を暗殺)から始まる15年戦争の結果、最後は第二次世界大戦での無条件降伏(ポツダム宣言受諾)に追い込まれ、天皇現人神という国家宗教(靖国思想)に基づく政治体制(山県有朋や伊藤博文らの明治の保守政治家がつくったもの)は終焉を迎えました。
日本の再出発は、戦前は抑圧されていた日本の民間人7人(「憲法研究会」)による憲法草案をもとに、GHQの力により主権在民の近代民主主義憲法が制定されたところに始まります。「天皇は儀礼を司るのみで主権は国民にある」とする象徴天皇制案は、7人の一人、杉森孝次郎(早稲田大学教授で、第55代総理大臣の石橋湛山と共に、プラグマティズムの哲学者・田中王道に学んだ)と言われます。
ところが、昭和天皇裕仁(ヒロヒト)が死去した際に、マスコミは「崩御」なる言葉(天皇の死に対してしか使えない特別な敬語)を用い、天皇現人神の戦前に戻ったかのような異常な空気を生みだしましたが、それと同じく、その一族に対しても、愛子さま、あるいは、悠仁さまと呼び、幼児にも敬語を用いています。
『日本国憲法』では、天皇の象徴という地位は、主権者である日本国民の総意に基づくと規定され(第1条)、主権者であるわれわれの意思に主体があるとされているのです。私たちは、年間170-180億円もの税金を用いて天皇一家を支えていますが(天皇家が個人的に使うのは6億円程度)、その家族に対して特別の敬語を用いて遇さなければならないのは、なんとも奇妙な話です。
近代市民社会(近代民主主義社会)の常識に照らせば、呼び名は、愛子ちゃん、悠仁ちゃんであり、「さま」は非常識です。さらに言えば、海外の王室の来日に際しても、お客様である相手側の人間には、「さん」づけ(ダイアナさん・・)で、自国の側の人間には「さま」づけ。もう、国語のテストなら完全に×ですよ(笑)。もしも、いまだに天皇は神、皇族は神々の一族という意識が抜けないのなら、愚かどころか論外でしかありません。宮内庁に勤務するお役人さん、新聞記者やテレビ局の方、少しは進歩してください。いまは21世紀の近代市民社会なのですから。いまさらですが、主権は天皇ではなくわれわれ一人ひとりの国民にあるのです。
なお、よろしければ、7年前に書いた『皇族の人権と市民精神の涵養』もご覧下さい(これは三部作の最後ですが『靖国神社と君が代』『日本の政治家は国という言葉の意味も知らない』も併せてお読み頂ければ幸いです)。
武田康弘