わが国は、1910年「日韓合併条約」により、朝鮮を「天皇による直轄地」としました(条約には「韓国一切の統治権を日本国天皇陛下に譲与」とある)、これに伴い朝鮮語による授業を廃止し言語も日本語に同化させました。
この日本の天皇陛下による支配に抗して、1919年の3月1日に三一独立運動が起こりますが、デモに参加した市民に対して日本の警察と軍隊は無差別に銃を乱射して多数を殺害したのでした。
これは近代史の常識ですが、いまだにこの日本政府による朝鮮支配(天皇陛下が治める直轄地)を美化しようする愚か者がいるのには呆れる他ありません。石原慎太郎東京都知事をはじめわが国の守旧派(明治政府がつくった「近代天皇制」に郷愁をもつ国家主義者)は、ネットウヨクと同レベルに過ぎない自身の歪んだ歴史認識・歴史観を至急改める必要があるはずです。
この日韓併合の1910年には、同人誌『白樺』が刊行されます。1914年に我孫子に移り住んだ柳宗悦・兼子は、1920年からは韓国人を励ますために繰り返し朝鮮にわたり、日韓の民間交流をつくりだしました。1919年の三一独立運動に際しては、1920年に『朝鮮人を想う』を読売新聞と東亜日報他に連載しますが発行禁止となります。そこでは「虐げる側である(日本)は、虐げられる側(朝鮮)よりも死の終わりに近い」とまで書かれ、日本政府による朝鮮人弾圧・支配を厳しく批判しています。
この柳の朝鮮擁護の主張は当時では極めて珍しく他には吉野作造がいるくらいだと言われますが、戦後に第55代総理大臣となる石橋湛山は、早くも1919年の5月に『東洋経済』の「社説」に極めて優れた文章を発表しています。プラグマティズムの哲学者・田中王道の薫陶を受けた哲学徒湛山の面目躍如と言えます。ぜひ、お読み下さい。
『朝鮮人暴動に対する理解』(東洋経済・社説)1919年5月15日
「・・・およそいかなる民族といえども、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来ほとんどない。インド・エジプトの英国に対する反感は年と共に高まり、アイルランドの独立運動は今日に至っていよいよ強烈さを加えてきたではないか。朝鮮人も一民族である。彼らは彼らの特殊なる言語をもっている。多年彼らの独立の歴史をもっている。哀心から日本の属国たるを喜ぶ朝鮮人はおそらく一人もなかろう。故に朝鮮人は結局その独立を回復するまで、我が統治に対して反抗を継続するのは勿論、しかも朝鮮人の知識の発達、自覚の増進に比例して、その反抗はいよいよ強烈さを加えるに相違ない。これを個人の場合について考えれば、直ぐに分かることだ。おそらく何人といえども、自己意識のある限り、他人の保護管理の下に生活するのでは、その他の一切の要求が遺憾なく満たし得られても、決して満足はせぬ。何となれば、自己は自己によって支配せられぬ限り、真の意味において生活はないからである。自己なき所にはいかなる善美をも意味を成さぬ。民族の生活もまた同様である。故に朝鮮人は日本の統治の下にいかなる善政に浴しても、決して満足すべきはずはない。故に彼らは彼らの独立自治を得るまでは断じて反抗を止めるものではない。問題の根本はここに横たわる。」(岩波文庫・『石橋湛山評論集』87-88ページ「鮮人」という記述は分かりにくいので「朝鮮人」にしました)
武田康弘