15年戦争―中国侵略から始まり、
日米戦争という愚行に走った過去の日本への深い反省なくしては、何事も始まらない、これは立場を超えた不動の真理です。
戦争への道を歩んだ日本という国家。
それを支えた国体思想による教育。
天皇という名の絶対者をつくり、
上意下達の道徳を強要し、
全体一致へと誘導。
こういう国家主義思想を明確に否定し、一人ひとりの実存から出発する人間性豊かな考え方・生き方をつくらなければなりませんが、残念ながら未だにそうなってはいません。
いまでも、個人の自由と自己決定を認めない形式教育が、とりわけ公立中学校の多くで行われ(長時間の部活動の強要による心身の拘束)、上意下達の想念を植え付けています。
自由と自己決定、そこからしか責任意識は生まれませんので、上位者に従わせる教育は、本質的に非倫理的・反倫理的なものでしかないのです。
個々人のそれぞれの考えを育てる教育がなければ、日本という国は、昆虫社会にしかなれません。人類社会に一番必要なのは、個人の責任意識の育成ですが、それは自由な言動なくしては生じないのです。自己決定しなければ、責任意識は生まれません。
だから、日米戦争にゴーサインをした天皇ヒロヒトも、責任意識がなかったのでしょう。自分が決めたのではなく、空気でそうなった、と思うヒロヒトは、敗戦の結果にも責任を取ろうとはしなかったのです。システムがあり、個人はいない、というのでは、まさしく昆虫社会です。
個人の誇り、輝き、悦びを生む思想を育み、それに基づく教育をしなければ、わが国の未来は開けないのです。
武田康弘
日米戦争という愚行に走った過去の日本への深い反省なくしては、何事も始まらない、これは立場を超えた不動の真理です。
戦争への道を歩んだ日本という国家。
それを支えた国体思想による教育。
天皇という名の絶対者をつくり、
上意下達の道徳を強要し、
全体一致へと誘導。
こういう国家主義思想を明確に否定し、一人ひとりの実存から出発する人間性豊かな考え方・生き方をつくらなければなりませんが、残念ながら未だにそうなってはいません。
いまでも、個人の自由と自己決定を認めない形式教育が、とりわけ公立中学校の多くで行われ(長時間の部活動の強要による心身の拘束)、上意下達の想念を植え付けています。
自由と自己決定、そこからしか責任意識は生まれませんので、上位者に従わせる教育は、本質的に非倫理的・反倫理的なものでしかないのです。
個々人のそれぞれの考えを育てる教育がなければ、日本という国は、昆虫社会にしかなれません。人類社会に一番必要なのは、個人の責任意識の育成ですが、それは自由な言動なくしては生じないのです。自己決定しなければ、責任意識は生まれません。
だから、日米戦争にゴーサインをした天皇ヒロヒトも、責任意識がなかったのでしょう。自分が決めたのではなく、空気でそうなった、と思うヒロヒトは、敗戦の結果にも責任を取ろうとはしなかったのです。システムがあり、個人はいない、というのでは、まさしく昆虫社会です。
個人の誇り、輝き、悦びを生む思想を育み、それに基づく教育をしなければ、わが国の未来は開けないのです。
武田康弘