昨日の続きのようなブログですが、
わが日本人は、なぜ教育熱心でも「愚か」なのか。
ほとんど意味のない細かな事実を問題とし、
なぜ?どうして?を問わず、
暗唱して終わらせる。
固有名詞までルビなしで読めるかどうかをテストし、
ふつうに言えることも、専門用語をつくり、分かりにくくさせる。
算数・数学も、思考力とは無関係の難問・奇問を出し、それらに正解する技術を受験塾で教える。
バカバカしい緻密主義、意味論なき事実学が横行し、それに応える頭脳を優秀だとする。
自分の体験に基づき、自分の頭で考え、異論・反論をするような人間は、「危険人物」として指導の対象とする。
こんな日本の教育では、いくらやっても、自己判断能力のある優れた人間は育ちません。
紋切りマン・暗記マン・イエスマンが威張るようでは、笑えない笑話にしかなりません。
事象から意味を汲み出す体験能力、
物事の本質を問う思考力、
全体として見る力、
こうした最も重要な知の育成がないのは、ほんとうに嘆かわしい限りです。
子どもたちに形式主義の知を強要している現実に、わたしは腹の底から怒りを覚えます。私塾を立ち上げて三十数年間、ずっと公共的な怒りを持ち続けてきました。
【内から湧き上がる力を育み、しっかりした「私」という座標軸をつくる】――そのためにこそ、知的教育はあるのです。これは原理です。
今のままでは、莫大な教育費を使い、いくら勉強時間を増やしても、虚しさが増すばかり。いつまでも「愚か」です。求められるのは、昆虫のような「優秀さ」ではなく、人類としての優秀さなのですから。「東大病」からの快癒が必要です。
武田康弘