日曜日の『東京新聞』の一面トップには、
学会尻目に電撃予算――1954年3月の提案
政界主導「札束でほっぺたを」
という見出しが躍っています。
「藤岡由夫(東京教育大教授)は、国会に出向いて反対を唱えるが、原理力予算案は3月4日に衆院を通過。本人は後に否定したが、小田原評定を続ける科学者らに、中曽根はこう言ったとされた。
『あんたたち学者が昼寝しているから、札束でほっぺたをひっぱたいてやるんだ』」(一面の記事のコピー)
中曽根康弘元議員は、正力松太郎と共に強力に原発を進めた中心者であり、その手法の徹底ぶりは驚くべきものでした。NHKでも放映されましたが、正力は、新聞、テレビを用いて情報操作をしてまで原発を導入したのですが、彼以上の政治的中心者であった中曽根元議員は、福島原発事故の後、沈黙したままです。
ふつうでは通らなかった原発予算案を通させたのは、中曽根一流の作戦があってのことでしたが、反対者が圧倒的に多かった原発をあらゆる手を使って実現させた彼は、同時に執拗に【道徳教育】(国家主義の観点から上位者に従わせる教育)を推進した人物でもありました。
では、自分自身の「責任」はどう取るのか。ダンマリを決め込んでいるのは、反道徳的行為としか言えません。
武田康弘
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ざらすとろ2011年12月13日 08:45
道徳を振りかざす奴ほど倫理的じゃないんですよ。あの中身の無いお調子者の中曽根の辞書に責任という語彙は存在しない。
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すかぶら2011年12月13日 09:37
ビキニ事件の頃でしたかね?
へびのあし(蛇足)
中曽根は海軍主計の将校でしたから、
兵は数字と思ってたのでしょう。
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タケセン2011年12月13日 12:56
ざらすとろさん
まったくです。道徳教育をいう大人は、他者のことではなく、自分自身を問題にすべきです。どだい、君たちは道徳的たれ!と言うこと自体が、道徳的ではありません。道徳とは自己についてであり、他者への命令ではないのですから。
すかぶらさん
「中曽根は海軍主計の将校でしたから、 兵は数字と思ってたのでしょう。」
そうですね。
彼のような国家主義者は、国家があって国民がいる、という逆立ちした想念に囚われていますので、根源ルール=社会契約論の意味を知りません。
特権者を認めず、対等な存在である市民の自由を互いに認め合う上につくるルール社会、という近代社会の原理を踏まえない政治家は、ほんらい民主主義の国では活動を認められないのですが、危険で本質的に愚かな輩がまだまだ大手を振るっていますね。
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ざらすとろ2011年12月13日 20:12
人口に膾炙されている道徳とはその価値基準は他律的なものとして機能しているので、私は道徳を否定します。私には私を律する自律的な規範こそがあって、それこそのみが私の従うべき掟であり、倫理です。
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タケセン2011年12月13日 21:55
まったく同感です。
ほんらいの道徳、言葉の優れた意味での道徳とは、自分のありよう(存在仕方)への意識の明晰さの程度をいうので、倫理と呼ぶほうが適切です。
中曽根ら国家主義者のいう道徳とは、外的規範(何かしら越的視点からの規範)にすぎず、わたしもそれを認めません。
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ざらすとろ2011年12月14日 08:12
実は人間はそういう外的な規範(ドクサ)から自由ではないのですが、そういう外的な規範そのものを批評し、外的な規範を乗り越えていく自律的な規範獲得によって、初めて、人間は道徳を問う事が出来るのだし、人は人として生きていると言えるのではないでしょうか?
ところでサドの小説に出てくる悪漢たちについて如何思われるでしょうか?
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タケセン2011年12月14日 09:18
ざらすとろさん
深いコメント、感謝です。
「外的規範」(その時々の社会常識)と「内からの命の働きに基づく倫理性」との緊張が強く豊かな倫理を生む、とわたしは思い、それを日々実践しています。
倫理の絶えざる吟味・創造こそが人間の生の意味深さの源泉だと考えています。
わたしは、サドの暗黒を引き受けない倫理とは、陳腐な底の浅い道徳=人間でしかないと思っています。