以下は、『ともに公共哲学する』(東大出版会)のわたしの文章からの抜粋 「自己という中心から公共性は生まれる」)ですが、これは、わたしの考える「公共とは何か」という本質論ですので、ぜひ、ご検討下さい(2007年6月14日に書いたもの)。
「この私の命・生活は何より大事なものであり、この私の心身と私の抱く想念は何より貴重なものである、とわたしはずっと感じてきました。
だからこそ、互いにその貴重な世界を守り合い、楽しみや悦びを広げ合うことが必要なのです。これが公共性の起こりであり、公共性とは、集団で生活する人間が、集団に埋没するのを防ぎ、個々人がより大きな私の可能性を開くために必要な思想だ、とわたしは思っています。
人間はひとりで生きることはできないので、単なる個人性では、個人の可能性は狭まり悦びも広がりません。公共性とは、互いに私の可能性を広げていくために必要な現実的な思想であり、社会の中でよく生きるための知恵ではないでしょうか。
狭く私の得だけを考える閉じた自我主義的思考ではなく、広くみなに共通する利益を考える開かれた公共的思考は、私の人生を社会的現実に向けて押し広げてくれます。公共性とは、観念的・抽象的な次元ではなく、現実的・具体的な領域で私を活かす道であり、それは私の人生の充実・悦び・晴れやかさの世界を切り開くことになるのです。
したがって、公共的思考は、一人ひとりのふつうの個人が、私的生活に閉じ込められてしまう不幸から抜け出るための方法であり、広く社会全体を私の世界にするという発想であり、官・政治権力者・経済的支配者・知の独占者から社会・国家・知を「私」-「民」に奪い返す力をもつものです。公共する哲学によって、現代の民主制社会に生きる私たちの思想の原理を明晰化していきたい、そうわたしは思っています。
公共的な時空を開くとは、ふつうの多くの人が、私の可能性を社会的現実に向けて開き合うことだ、それがわたしの基本思想ですが、「公共哲学」の第一人者であるキムさんは、武田の考えをどう見ますか?」
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以上のわたしの基本思想に対して金泰昌さんは応えることをせず、従来の自説を繰り返すのみでしたが、わたしは、上記の考え方こそ、公共の本質=原理となりうるものと確信をもっています。
公共哲学関係者(もちろんそれ以外の方も)の異論・反論を頂けると、有用・有益な学問(本質論=哲学)の発展になりますので、ぜひよろしくお願いします。とりわけ東京大学で公共哲学や社会思想を専攻する教師の方は積極的に発言してほしいと願います。
武田康弘