思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「国体思想」という妖怪

2012-08-22 | 社会思想

わたしたち生活者の自由対話によりつくられる一般意思の前に国家意思があるとする国体思想は、いまだに根強く残り、強権的政治家たちの行為を正当化させる日本流のナショナリズムを生んでいます。

無条件敗戦でも【国体護持】!? これだけは譲れない、と当時の日本の支配者たちは口を揃えて言いました。【国体】とは、天皇とその一族が現す国の「姿」であり、それが日本国である(安倍元首相のいう「天皇を中心とする長大な物語」)という観念のことですが、この神話は妖怪となって、21世紀の近代市民社会をも混乱に陥れています。

以下は、14年前(1998年11月19日)に書いた国体思想を説明する文章ですが、コピーします。

「国体思想とは、制度=システムでしかない〈state〉に、国土の概念を重ね合わせることで、国家にひとつの生き物のようなイメージをつくりだし(実体化させ)、一人ひとりの人間をその構成要素としてしまうイデオロギーである(そこでは、人々の合意の形成以前に「あるべき姿」が問答無用で決定されている)。
一言でいえば、国体とは、国家の物神崇拝(fetishism)が生み出した〈概念〉だ。元来、フェティシズムとは衣類などを性欲の対象とする〈異常性愛〉の意味だが、「国家のために!」などと言う輩は、国家システムそのものを欲望の対象にする異常者だと規定できよう。

 そうであれば合点がいく。日本の受験エリートたちは、自分の内的欲望を否定され、外的価値のみを追うように作られた競走馬でしかないために、自分が本当は何を欲しているかが分からない。生の土台が失われているために、何をなすべきかも出てこない。ただ勝つこと、無目的に、理由なく、勝つことしか志向できないこの「異常者」たちには心の悦びもない。このような人たちに、なぜ?の追求と、何のために?を考えて有意味な〈理念〉を構築していくことは全く不可能だ。彼らが追求することができるのは、ただ一つ、制度=システムそれ自体の維持である。」(武田康弘)

 

コメント (6)
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