思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

わが日本人は、他者依存か、他者利用、こりゃ ダメだわ。

2014-11-19 | 恋知(哲学)

(1)自分自身の心身に直接感じられ、想われたこと、一言で、わたしの直観=体験。

(2)同じくわたしの具体的な経験ではあっても、確かだなと思われる他者の体験を見聞きしたことーその人から直接聞いたこととネットなどに書き込まれたことの双方。

 この二つを明確に区別すること、区別して話し、区別して書くこと、
これを心掛けないと、精神の健全・健康が得られず、さまざまな精神疾患に陥ります。

現代のネット時代は、余計に気をつけないと、自他の区別があいまいとなり、その結果、わたしの心の自立が得られず、心身の自由な飛翔が妨げられ、精神の他者依存から抜けられなくなります。常態化すると、依存していることの自覚さえ得られなくなります。

明確な区別のもとに生きている人同士になってはじめて、発展的な協力が可能ですし、さわやかな楽しみの世界が広がります。ベタッとした依存関係ではなく、【自立する美しい精神】が互いのよさを引き出すのです。それがほんものの協力です。

しかし現実は、残念ながら、そのようにならないことが多く、他者「依存」(昨日のblogで書いた自己を高く見せる高等詐術)か、他者「利用」のどちらかであることが多いです。

人間は、ものやシステムを利用することはできますが、人間が人間を利用することはほんらい不可能です。人間は互いに主体者ですから、協力することは可能ですが、利用するという関係はありません。あえてそれをしようとすれば、心身は歪み、腐ってしまいます。地獄堕ちです。

昨日のblogの続きのようになりましたが、これは、極めて大切な生の原理です。
自他の経験・想念・行為の明晰な区別、その自覚が何より必要です。親子であれ、夫婦であれ、親友であれ、仲間であれ。

その自覚の上に、わたしの見方や考えや行為の【背後にあるもの】、どこから、誰からもたらされたのか?を意識し、それを率直に表明する習慣をもつこと。
ほんらいは当然のその作業を怠れば、深い嘘つきにしかなりません。それは、自他のよろこびを塞ぎ、不幸しか生みません。
程度の差こそあれ、知らずにそうなっている人が多いので、要注意!これは、「死に至る病」なのですから。


武田康弘

 

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