思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

南京事件(殺人、暴行、強姦、略奪、放火)の日本軍資料による事実ーー泥 憲和(元自衛官)

2015-03-04 | 学芸

  以下は、当時の日本軍資料と兵士の証言による南京事件(殺人、暴行、強姦、略奪、放火)の事実です。
日本人みなが知るべきことが知らされていません。恥べきことです。

 

【南京事件の解明はどのようになされてきたのか】    泥 憲和(元 防衛ミサイル部隊所属の自衛官)

 

 前の記事(南京大虐殺の映画の紹介にコメントがついたのだが、コメント欄で回答するのは難しいのでタイムラインに上げる。

  
  南京事件は国際軍事法廷で事実として認定され、虐殺数は「30万人」と判決された。
  これを否定する側との激しいたたかいの中で、南京事件の事実性はますます確固たるものとなった。
  「30万人」が正しいのか正しくないのか、そんなことはいまさら分からない。
  こういった巨大な事件について、10倍程度の誤差があるのは普通のことだし、30万人が10万人でも帝国陸軍の手柄になるはずがない。

 いまから書くのはそういったバカバカしい論難を脇に置いて、否定派研究者とまともな研究者のちがいを知っていただこうとするものだ。
  あわせて、ひとつの事実を確定するために歴史学者がどれほど苦労しているかを述べるので、南京事件否定派の論難のくだらなさを実感していただきたい。

※※※

 南京大虐殺否定派の畝本正己氏は『証言による南京戦史』を書きました。
  これは南京大虐殺を全力で否定するために書かれた本です。

 たとえば歩兵33連隊の『作戦詳報』には、捕虜の「大量処刑」が記録されています。
  これは連隊長と師団長の決済印のある公文書です。
  やってもいない捕虜殺害を、部隊が公文書に書くはずもないと思います。
  しかし畝本氏は、「そんなことしていない」という一人の元兵士の、「証言」ひとつで、これを全面的に否定してしまうという蛮勇をふるっています。
  一方で、虐殺があったという中国人の「被害証言」は、根拠なく「ウソ」だと決めつけています。

 しかしこんな本でも「捕虜の不法殺害」や「市民の虐殺」を認めている。
  それは当事者が証言しているし、公文書の裏付けがあるので、否定しようがないのです。どんなに取り繕っても隠せない事実があるのです。
  さて、こういう研究とはどのように行われているのか。

 ひとつの例として、第114師団を上げます。
  この師団は有名です。

「八、午後二時零分連隊長より左の命令を受く
      左記
  イ、旅団命令により捕虜は全部殺すべし
   其の方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何」

 この記録が、第114師団のものなのです。
  この命令が本当にあったのか、また実行されているのか、それが研究テーマとなりました。

 師団行動を記録した公文書がたくさん発見されました。

☆ 『第百十四師団作戦経過の概要 昭和12.11.7~12.14』 
☆ 『第百十四師団「戦闘詳報」 昭和12.12.6~12.14』 
☆ 『第百十四師団「戦時旬報 第5号」 昭和12.12.11~12.13』 

 これらには「赫々たる大武勲」が書き連ねてあります。

 ここには捕虜の処断も正直に記録してありました。
  悪いことだと思っていないから、正直に書いてあるのです。
  この部隊行動が一部隊による勝手な行動でないことは、以下の命令群で裏付けられました。

☆ 一一四師作命甲第五十九号 昭和12.12.10 
☆ 一一四師作命甲第六十号 昭和12.12.10 
☆ 一一四師作命甲第六十二号 昭和12.12.13 
☆ 歩一二八旅命(右翼隊命令) 昭和12.12.12 
☆ 歩一二八旅命第六十六号 昭和12.12.13 

 これらの命令文書がつぎつぎに発掘されたのです。
  命令に従った下級部隊の実行を裏付ける部隊記録として、以下のものが見出されました。

☆ 「歩兵第六十六聯隊戦闘詳報」
☆ 「歩兵第六十六聯隊第一大隊 南京附近戦闘詳報」
☆ 「戦闘詳報」第六号 歩兵第百五十聯隊

 作戦に参加した兵士の証言も、たくさん見つけられています。

☆「城塁・兵士たちの南京事件」阿羅健一(月刊『丸』潮書房、1989年1月号~1990年12月号)
☆「郷土部隊奮戦記」(サンケイ新聞栃木版、昭和37年)
☆「野州兵団の軌跡」(栃木新聞、昭和54年~55年) 所蔵:国会図書館
☆『野州兵団奮戦記』高橋文雄(中央通信社、1983年) 所蔵:栃木県立図書館
☆『われらの大陸戦記 歩兵第66連隊第3中隊のあゆみ』西沢弁吉・第3中隊長 
☆『聖戦の思い出』手塚清・第4中隊長 
☆『わが人生の歩み』高島惣吉・第2機関銃中隊長(高島剛編、1993年出版) 

 これらの史料を発見、収拾するのに、研究者がどれほど苦労したでしょうか。
  山のような公文書をかき分けて見つけ出したのです。
  週刊誌なんか、いつどの本に載ったのかを、どうやって突き止めたのでしょうか。
  その手間と努力のかげには、空振りに終わった探究も数限りなくあったことでしょう。
  研究者の努力に、心からの敬意を捧げます。
  これらを基礎に、歴史事実が確定されているのです。
  言っておきますが、これは南京事件全体に関する話ではなく、たったひとつの現場に関するものなのです。
  全体の資料はそれこそ膨大です。


  さて、東中野教授という否定派の大物がいます。
  「百人斬り裁判」の証人として出廷した経歴があり、右翼から専門家として持ち上げられている人物です。(判決で「研究の名に値しない」とみなされたのですが)
 その東中野教授が114師団のことを弁解するのに持ち出したのは、つぎの話です。

>激戦の最中に捕虜に食事を与えている

 これだけです。
  だから殺すつもりがなかったことがわかる、と。
  いまから殺す相手に飯を食わせるはずがない、と。
  しかし、事情があって殺してしまった、と。

 これが捕虜虐殺の弁解になると思っているのは、東中野教授くらいのものです。
  これで歴史が語れるのなら、私だってそうします。

 否定派は楽なもんです。
  資料なんか読まないネトウヨ相手だから、ちょっとした話術さえあればたちまち人気者で、講演会に呼ばれ、セミナーで稼げます。
  講演会に行けば企業や商工会が動員した聴衆で満員です。
  セミナーでちょろっと話せばン十万円。

 こんな奴らに愛国だのなんだのとおだてられ、根拠もなく他国を罵倒して喜んでいる奴らってなんなんでしょうか。
  まっとうな研究がこれほど軽んじられ、日の目を見ない時代って、絶対病んでますよ。

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以下は、コメント欄より、泥さんの補足説明です。

 

Suzuki

先のコメ欄より。何よりも研究が必要で、また世に知らせるべきは中国側のロジックの構造であると理解いたしました。

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泥 憲和

   銃を構えた敵国兵士が街をうろつく恐怖を体験したことのない私たちが何よりも知るべきなのは、作戦に参加した日中両国兵士、および南京にいた民衆が味わった地獄のような日々の体験ではないかな。

 南京アトローシティというのは殺人だけじゃなくて、暴行、強姦、略奪、放火などの犯罪を含む。

 大規模な略奪を総司令官にとがめられた師団長が「命を取り国を取るときに物を取るぐらい何かあらん」と堂々と抗弁してやったと自分の戦中日記に書いています。略奪を多少は後ろめたく感じていたのか、ある師団長は「○○は奪った家具や美術品を貨車で内地に送ったそうだが、自分にはそこまではできん」と書いています。豚や鳥をかっぱらってたらふく食って「戦争は面白い、亡国の民は哀れですね」と戦中はがきに書いた兵士がいます。

 強姦の激しさは日本軍の公式記録にあらわれています。

 12月に夏服で戦わされた日本兵は寒さに震え、「そこら中の家から板をひきはがして燃やすから不始末による火災が後を立たず」という記録があります。「先を行く部隊が家々を焼いてしまうから自分たちは寝る場所もない」との不満が兵士の陣中日誌に記されています。

 揚子江を埋め尽くした船には避難民や逃亡兵が満載でしたが、それらをかたはしから砲撃して沈めていった手柄話を書いているのは海軍の記録です。
 こうした渦中に置かれた民衆がどれほど悲惨だったか、30万人ではないという一言で消え去るものではありません。
 中国が日本領土を一寸でも侵したのですか。いいえ、日本軍が一方的に攻めかかり、すべて彼の地で起こしたことです。

 

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繁 周作

  いつだったか否定派と思しき人ががテレビで…

中国は最初3千人と言っていた。それがいつの間にか3万人になり、しまいには30万人になった。そんな話を信じろと言う方が無理ですよ!」と言っていました。

でも、そんなの、それこそ人数の問題じゃないですしね。
最初は中国側には資料はいので数えようもなかったのでしょうし、資料が揃って研究が進むに連れて犠牲者数が増えてきたって何の不思議もないと思います。

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泥 憲和

繁さん
 その話は国際連盟で中国代表がした演説だと思います。
 「 南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は二万人と見積もられ、その一方で、若い少女を含む何千人もの女性が辱めを受けました。」
 占領地の様子がわからないため外信で報道された内容を述べているだけなのです。

 必死で国際社会の支援を求める中国に、列強は同情したものの何の行動も起こしませんでした。まるで今日のパレスチナのようです。
 当時の帝国日本は、現在のイスラエルのように奢り高ぶっていました。その軍事力の前に、世界は手をこまねくしかなかったのです。しかしものには限度があります。その後の日本の運命を私たちは知っています。

 

コメント
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